時間と習俗の社会史 福井憲彦 [#表紙(img/表紙.jpg、横192×縦192)] 目 次[#「目 次」はゴシック体]   はじめに  ㈵ 歴史のなかの時間 [#ここから2字下げ] 1 時のはかどりを時計が告げるようになるとき 2 時を治めることは社会を治めること 3 実用の時計とシンボルの時計 4 鉄道のネットワークと時間の統一 5 時間の秩序と秩序の時間 6 聖月曜日の労働者たちと工場の時間 7 機械の時代と時計の時代 8 労働現場の状況とさまざまな時間の秩序 9 テーラー・システムと科学的管理 10 時計の存在がごく身近になるとき 11 社会的時間の加速化 12 さまざまな時間の生きかたへ [#ここで字下げ終わり]  ㈼ 習俗世界のイマジネーション [#ここから2字下げ] 1 若者たちの五月 2 火祭りのほのおは燃える 3 七月十四日の祝祭と革命の神話化 4 ヴァカンスの季節、あれこれ 5 ブドウのとりいれ、守護聖、そして聖母マリア 6 「聖母出現」の不思議 7 死に想いをいたすとき 8 ノエルの季節 9 ながくさむい夜をやりすごすために 10 カルナヴァル——祭りの舞台と騒乱と 11 復活祭と春のよみがえり 12 祭りの風景のむこう側 [#ここで字下げ終わり]   おわりに   文庫版へのあとがき [#改ページ]  はじめに  旅することはおもしろい。ことに見知らぬ土地をおとずれて、ふだんの生活では味わえない感触を肌にとらえることは。  その土地の風景に目をやりながら、旅人として通りすぎてゆくのもよかろう。  けれども、その土地にしばし腰をすえ、その風景をつくりあげてきた人びとと生活をともにしてみることにも、またちがった味わいがある。いままでの、ふだんの自分の生活とはちがった、あらたな経験は、地球上にはさまざまな息づかいをもった生活と文化があることを教えてくれる。さらにそれをとおしてまた、自分が背負いこんでいる生活と文化のありかたについても、反省的に考えることをうながしてくれるだろう。  文字どおりの旅が、空間のなかを移動することであるとすれば、歴史をたずねることは、時間と空間というふたつの軸にそって旅することである。  歴史への旅は、現実にからだを動かすわけではもちろんない。しかし、イマジネーションを駆使してタイム・スリップしてみることは、やはりひとつの旅なのだ、と思う。  この旅は、ありとあらゆる資料の森のなかで、ときには消えかかったような痕跡を、きわどくたどってゆくものなのだが、かつての人びとが生きた社会をともに生き、その心を感じとろうとすることなくしては、旅の満足は表面的なものにおわるだろう。歴史の風景をながめつつ、その風景の背後にある人びとの生活の世界をたずねること。そんなフランス史の旅をしてみたいものだと、かねがね感じていた。この本は、そのささやかなこころみである。  時間と習俗。いささか、おどろおどろしいだろうか。けれどもわれわれは、生まれ育った状況に応じて身にそなわった生活の手順をもち、ふだんはほとんど無意識のうちにそれに即して行動し、時間を使っている。  そうしてわれわれが、あたりまえだと思いこんだり、そうあるべきだと思いこんだりしているその思いこみは、ふだんの生活からちょっと身をはなしてながめなおしてみたら、いったいどんなふうにみえるだろうか。とりわけ現代社会での生活は、時間との追いかけっこを余儀なくされているような按配になっているが、いったいどうしてそんなことになってしまったのであろうか。  フランス史への、このちいさなタイム・トラヴェルは、そうしたことを考えてみるためのこころみでもある。 [#改ページ]   ㈵ 歴史のなかの時間 [#改ページ] [#2段階大きい文字] 1 時のはかどりを時計が告げるようになるとき  ときに、というよりもしばしば、なんでこんなに時間に追いまくられた生活をわれわれはしているのだろうか、という思いにつきまとわれる。それでもわれわれ大学の教師風情は、ふつうの勤めをしている人たちにくらべれば、はるかにいいかげんな時間の使いかたをしているはずなのであるが、それでもなお、であり、現代社会、とくに都市に生活するものはだれでも、多かれ少なかれそうした思いを感じないほうがめずらしいだろう。  私のように頑固に、クウォーツでもないむかしながらのアナログを使っていようと、あるいはディジタル表示のものであろうと、われわれにとって時間とは、なにより時計が刻むものとしてイメージされ実感されている。しかしこのようなありかたは、じつはそれほど歴史をさかのぼれるわけではない。時間や時計の歴史をとりあげた少なからぬ学者たちがすでに語ってきたように、正確な時間を知りたいと思う気持ちや、あるいは知ろうとする欲求は、けっして人間に自然にそなわったものでもなければ、また自明至極なことでもないのである。  まずはじめに、時計のない時代としての中世ヨーロッパへタイム・トラヴェルして、ことの様子をながめてみよう。人びとはどうやって時のはかどりをとらえていたかといえば、日の出から日の入りへの太陽の動きと、教会や修道院の鐘の音がそれを告げてくれるのであった。一日にせよ一年にせよ時間は農作業のリズムに対応したもの、であると同時にまた、教会の鐘が象徴するように、時間は、ということはまた歴史は、神に属するものであり、人間が計測したり働きかけることのできる対象とはみなされていなかった。  では教会や修道院が告げる鐘は、どのように鳴るのだろうか。昼夜ともに十二にわけて、あわせて一日を二十四に区分する発想は、ローマ時代の伝統をそのまま受けついでいた。けれどもこの区分は、かならずしも等分を意味しない。鐘の告げる時間は、なにより宗教的時間、つまりキリスト教の信仰上のお勤め、聖務日課の時間を知らせるものだったのである。ちょっとこまかくなるけれども、みておこう。日の出の刻が第一課、太陽が南中する正午が第六課、日の入りの刻が第十二課、ミレーの絵でも有名なあの晩鐘が鳴る時刻。そして日の出と正午の中間が第三課、正午と日の入りの中間が第九課という具合になる。夜も同様に、真夜中の朝課と、日の入り、日の出とのそれぞれ中間に終課、讃課という区分。  時計による二十四等分の区分に慣れきっているわれわれには、なかなかわかりにくいことなのだが、昼夜別に区分が固定されていたということは、昼夜の時間の長さがおなじである春分と秋分の日には、鐘の音の間隔もおなじになるが、昼の長い夏と夜の長い冬とでは、間隔はまったくちがってくることになる。現在のわれわれが慣れ親しんでいる定量的な時間区分が定時法といわれるのにたいして、その時代の時間は不定時法で指示されていた、ということである。  いつ鐘を鳴らすか、というのは、太陽の動きをみて、あるいは日時計をもちいて、ということであったが、天気の悪い日や夜はそうはいかない。そこで水時計や砂時計だの、ローソクに目盛をつけてその燃え具合だのが目安として併用される。  現代からすればいかにもおおらかな、この鐘の音が告げる時間の世界で、人びとが時のはかどりに無関心だったのかといえば、そうではない。およそ関心のありかがちがっていた、ということなのである。だいいち、時間との関係で生産性を考えたりする発想などとは無縁であるし、生活するのに時間の正確さが必要なわけでもなく、畑仕事をするにも家畜の面倒をみるにも、自然のリズムと教会の鐘の音で別に不自由はない。生活のリズムということでいえば、日の出にはじまり日の入りに終わるこのリズムは、第㈼部にみられるような十九世紀末や二十世紀はじめの農村社会にとっても、およそ基本はかわらなかったものである。  農民ばかりでなく職人の世界においても、いまのいいかたでいうところの生産性とか利潤をあげるという発想、つまり商品経済の発想が芽ばえ、優先的になってくるまでは、時間との関係は似たりよったりである。  聖王ルイ九世の時代、王の命をうけた当時のパリ市長にあたる役人エチエンヌ・ボワローが一二六八年にまとめあげた『職業の書』という本がある。つい最近復刻版もでたから、手にすることは簡単だ。どういう本かというと、パリにあったさまざまな同職団体いわゆるギルドの規約を集めて一覧にしたもので、当時の職人たちの仕事のやりかたや修業などについて、いろいろなことを教えてくれる。時間についてみれば、たとえば「毛織物の仕上げにたずさわる徒弟・職人は第一課の鐘の音で、親方のところにて朝の食事をとること」といった規定にみられるように、日の出から日の入りの自然のリズムと教会の鐘が、時のはかどりと仕事の進みとを基本的に枠づけている。  ところが、一部に時間をめぐる変化が生じてきていることも教えてくれる。いくつかの職種、たとえば小さな飾り釘をつくる職人とか数珠玉をつくる職人については、一年のうち夏の期間は仕事の終了時刻は「サン=マリ教会の終課の鐘の音にて」とか、「ノートル=ダムの終課の鐘の音で仕事場をはなれるべし」とされている。パリの夏だから、空はまだ明るかったかもしれないけれども、ようするに夜に入ってもしばらくは仕事をつづけているわけである。現在の常識からすれば、別にどうということもない。いまでは、日がくれてから働きにでる人だってめずらしくはないのだから。  けれども中世ヨーロッパにおいては、どうやらそうではないようなのだ。つまりそれまでは夜間労働はタブーであった。修道院生活においては、夜は瞑想と休息の時であったし、農民生活においては屋外の夜間労働は実際に不可能でもあり、かつまた夜は悪魔や呪いの時としておそれられた。しかも屋内での照明も、しばしば暖炉の火からのあかりのみだったのであり、寒さをしのぐ薪の火は、たいへん貴重で倹約すべきものでもあった。これらの点については、第㈼部でより立ちいってみることになるだろう。  ところが都市における職人の世界が活性化してくるにおよんで、こうした自然のリズムにしたがった労働日の慣行が部分的に崩れてきた。それが夜間労働の組織化なのだ、というわけである。ボワローが同職団体の規約を集めるよう命じられたということは、この時代のパリでは、王権が職人たちの活動を把握するためにはそうした手続きが必要なほど、この都市労働の世界が活性化しはじめていたことを示しているものと考えられる。こうして都市労働の世界から、それまでとはやや異なる時間のとらえかた、組織のしかたが生じてくることになる。  そのようにして十三世紀末から十四世紀にかけて、独自の労働時間の区切りを伝え、都市生活のリズムを告げる都市の鐘が、教会の鐘とは別につくりだされた。その先陣をきったのは、とりわけ織布業をもつ都市である。経済的に、そして社会的にも上昇しつつあった商人や親方職人たち都市住民、すなわち語のもともとの意味でのブルジョワジーが、この時期おそってきた経済危機を乗りこえるためにも、みずからの手で時間の世俗的な組織化をはじめた、というわけである。  中世史家ミシェル・モラは、パ・ド・カレ地方の町エール=スュル=ラ=リスの例をあげてくれている。一三五五年、この町が独自の鐘をおくことにした理由は、警鐘という役割のほかに、つぎのように規定されていた。「なんとなれば、この町は織布業およびその他の職にて統轄されており、日々労働者は、各自それぞれの時刻に仕事につき、また離れている具合だ。かつまたこの町の町長、役人、数名からなる市民・平民が慣習にもとづき週数回ホールに集まりて法を取りきめるにあたり、それら時刻をつげるための鐘を塔上にもうけることが必要であろう」と。  機械仕掛けの時計が社会的にもちいられるようになりだすのは、まさに、このような時間の組織化における変化の流れのなかにおいてであった。ではいつから機械仕掛けの時計が西ヨーロッパ世界に姿をあらわしたのか、ということになるが、じつはこの点はよくわかっていないというのが、正確なところである。中世ラテン語のオロロギウムという語が時間計測装置を意味していたが、それは機械仕掛けに特定されず、日時計などをもさしたから、この言葉の存在だけでは時期が特定できない。推論では、十三世紀後半にはおそらくつくりはじめられていたのではないか、とされているようだが証拠はない。記録のうえできわめて詳細な説明がともなわれている最古の文書は、イタリアのパードヴァでジョヴァンニ・デ・ドンディが残したもので、一三六四年のことである。この文書にもとづいて復元された時計がワシントンの歴史博物館に展示されているそうだが、ドンディのメカニズムはきわめて詳細で正確であった。ということは、たとえこの人物が傑出した才能の持ち主だったとしても、すでにこの時点で機械仕掛けの時計をつくる、あるいは設計する技術的水準は、かなりのところまでになっていたとみてよい。じっさい都市に機械仕掛けの大時計が設置されたとされる記録は、十四世紀の前半から出はじめるのである。これが、現在までに、中世史家や技術史家たちが確証してきたところである。  こうしておおむね十四世紀から、教会の鐘楼とむきあい、高いところにすえられた都市の世俗の大時計は、力をつけはじめた都市の優越のシンボル、威信のしるしとなる。というのも、塔の上に鐘を鳴らして時を告げる大時計を設置することは、当時としてはたいへんな大工事であり、多大な財力と月日とを要したのである。たとえば、技術史家内田星美氏によれば、一三六五年に当時のアラゴン王が、現在はフランスの都市であるペルピニャンの城に塔時計をつくらせたとき、その総費用は現在の約一億円、工期は九カ月にわたり、時計の重量は約二トン、鐘はじつに約四トンだったという。そして動員された職人の数は百人にちかかった。一部の都市で機械仕掛けの大時計が生活の時のはかどりを告げるようになり、それらの都市の人びとは、二十四等分された一日のどこに自分が位置しているか、という発想に親しみはじめる。その後今日にいたる道筋を考えれば、この変化の意味はおおきい。だが、あまり幻想をもってもいけない。それはごくごく一部の都市の話であって、大多数の人びとは生活の時のはかどりを時計で知ったわけではなかった。  都市において、時間はたしかに計測しうる操作概念となり、世俗的に組織化されてくる。しかしこれとても、時間意識が全体としてそこで世俗化した、とはいいがたい。初期の大時計は、しばしば宇宙像と結びついたコスモスのシンボルだったともいわれている。「時は金なり」といった精神にしても、中世末にすでに姿をあらわしはじめているのだが、それはのちのプロテスタンティズムの場合とおなじく、宗教的モラルとしてまず立ちあらわれているのである。時を無駄に失うことは重大な罪だ、と。  だがなによりも重要なことは、たとえ宗教的救済とふかく結合してあらわれてきたものだとはいえ、ここにおいて時間をたんに知るだけではなく、時間をつかおうとする働きかけの意識がつよく生じてくることである。 [#改ページ]   2 時を治めることは社会を治めること  時間はなによりも神に属するものだとするとらえかたから、人びとは徐々に時間を操作し、分割や計測の対象にしたりしだすことになった。その「時間の世俗的な組織化への変化」を象徴するものが、都市に出現しだした大時計だったのである。  かつて時間が神に属するものであり、したがって歴史の進行は人の手のおよぶことのできないものだ、とみなされていた場合には、人びとの生は、いわば神によって与えられ、定められた歴史のひとこま、とでもいうべきものとなる。  ところが、時間が世俗的な社会生活に対応して組織化されてゆくことは、時間に関する意識も歴史のとらえかたも、部分的に変化しはじめることと照応している。それまでは、たとえ原罪ゆえに人は死なねばならず、そして人類全体は滅亡にむかわねばならないとしても、しかし最後の審判は同時にまた再生を約束するものであった。つまり、それはいわば予定調和的な安定した歴史観であり、死生観だったといえよう。しかしそのようなとらえかたは、時間と歴史が神の手をはなれはじめるとき、もはや崩れはじめざるをえない。時間が世俗的な、つまり人の働きかけの対象になるとすれば、歴史や、また歴史のなかでの個々人の一生も、人の働きかけの対象とならないはずはない。  中世末にすでに姿をあらわす「時は金なり」というモラルが、まずなにより宗教的感性と分かちがたく結びついていたこと、「時を無為に失うことは重大な罪だ」というとらえかただったということは、すでにみたとおりである。罪ということは、死後の救済がおびやかされることを意味した。死後において救済されるためには、いかによく死ぬか、そしていかによく生を送るか、にかかわっているのだとする死生観がひろく社会に行きわたる。個々人の生と死が、いわば人類全体の終末=再生の図式から個々人のもとへと送りかえされてくるとき、死後の救済への人びとの意識はより鋭くとぎすまされてくる。教会の言説は、「メメント・モーリ」、つまりたえず死を想えとくりかえす。こうしてホイジンガが説いたように、「中世の秋」は死と終末のイメージにあふれることになるのだが、反面それはつぎにおこる生の飛躍へのバネともなった。  というのは、予定調和的な歴史観や死生観の崩壊は、救済への関心をバネとして、ひとりひとりの人間の意志的な生の組織化、時間の組織化ということにつながるからである。こうした意識の生成は、おそらくルネサンス期におけるヨーロッパ史の急速な展開ということとも、無縁ではない。  われわれは普通に生活を送っているかぎり、みずからの時間意識がどのようなありかたをしているかなどと、しかつめらしく考えをめぐらしているわけではない。けれども学校や会社での時間のスケジュールや、鉄道などの時刻表、友だちや恋人との待ちあわせなど、どれをとってみても、時計を目安に、ある一定のやりかたで身を処している。そして現代の日本社会でのやりかたが、世界中どこでも、いつの時代でも通用するものかといえば、まったくそうではない。たとえば、ラテンアメリカの鉄道時刻表がおよそあてにならないこと、それでもさしたる混乱もなく社会生活が成立していることは、あまりに有名であるし、このことは程度こそちがえ、一部の国際特急などをのぞけばヨーロッパでもかなりなところあてはまる。  これをもうすこし角度をかえて考えてみれば、人はそれぞれの時代と社会のなかで、時間の処理のしかたや時間についての意識において、それぞれ固有の枠組みを形成している、ということである。さらに角度をかえれば、時間の組織だてを支配するものは、人びとの時間意識や社会生活を、かなり左右しうるということでもある。  都市の大時計が都市の威信のシンボルだったということは、たんに時計が珍品だったとか、高価だったからというばかりではない。それはまさに社会生活の秩序だてをみずからの手で行なっているのだ、というしるしだったのでもある。パリの大時計をめぐる歴史には、そのことがさまざまにしるしこまれている。  国王もまた、こうした時計の意味を見のがすわけはなく、フランス王シャルル五世は一三七〇年ごろ、パリの中心である王宮の塔に大時計をとりつけようと考えた。その時計が、全市に時のはかどりを告げるのだ、と。つまり、パリ市内にある時を告げる鐘は王の定める時刻にすべてならえ、ということである。  ところが時計をつくらせようにも、その当時のパリには、しかるべき職人はいなかった。そこでアンリ・ド・ヴィクなる腕ききの職人をよびよせた。この職人について詳しいことは伝わっていないのだが、かれはアルザスからロレーヌ一帯を活動の場にしていたという。だから、ハインリヒというふうにドイツ読みにした方が正しいのかもしれない。いずれにしてもこのころ、これらの地方はフランス国王の領土ではないから、わざわざ外国から職人を招いた、というわけである。完成までに八年ちかくの歳月を要したというこの大時計が、パリ最初の公共用大時計となる。  この大時計がすえつけられた王宮の塔というのは、シテ島のなか、のちにコンシエルジュリの牢獄としてながいこと使われ、フランス革命下にマリ=アントワネットも収監されたことで有名な建物の一角にある。いまでは、裁判所ぞいに島のなかを北上し、ちょうどシャンジュ橋のたもとに出ようかという、セーヌに面したところである。その後、何回かの破壊と修復をへて、いまでも存在する時計塔だ。ここに時計塔がおかれたゆえに、ここからヌフ橋にかけてのシテ島北岸は、時計河岸とよばれる。 [#挿絵(img/fig1.jpg、横×縦)]  パリに行かれたら、この時計を眺められたらよろしいのだが、時計塔とはいっても、あのロンドンのビッグ・ベンのようにてっぺんちかくに時計があるのではなく、日本風にいえば二階から三階にあたる位置にすえられてある。高さ四十七メートルの塔じたいは、すでに十四世紀なかごろ、善良王といわれたジャン二世によって築かれており、そのてっぺんには警鐘がそなえつけられてあった。  シャルル五世は、そのジャン二世の長男であるが、百年戦争の敵方であるイングランド軍勢によって占領されていた地域をほとんど奪還したのが、ちょうど時計をつくらせていた時期と対応している。さらにそれに先だって、ジャックリーの乱といわれる北フランス一帯の農民反乱を鎮圧し、同時におこされたエチエンヌ・マルセルの乱というパリ市の反乱をも鎮圧したのであった。シャルル五世は他方、王立図書館をつくらせたり、文武双方にひいでていたがゆえに、賢明王とよばれることになる。その伝記を残したクリスチーヌ・ド・ピザンによれば、長身にして肩幅ひろく、やや長めの均整のとれた顔、ひろい額に形よき眼、鼻十分に高くして口は小さすぎず唇はうすい、というこの美男の王様は、塔のいちばん上の部屋にのぼり、みずからの拠点であるパリ市一帯をへいげいすることを好んだという。王が外国から職人をよんでまでして作らせた大時計は、まさに天下を支配することのシンボルであった。  さてこの時計は、一五八五年、アンリ三世のときに修復工事をうけて、文字盤などが一新された。その文字盤の彫刻には、ラテン語でふたつの碑文がきざみこまれたが、そのうちのひとつにはこうあった。「時をかくも正確に十二にきざむこの機械は、正義(裁き)を守り、また法を守ることを教えるものなり」と。おりからの宗教戦争で新教・旧教両派に分裂した内乱状態を、王が頭においてきざませたものであっただろうか。もうひとつの碑文には、王権がいかに正統なものであるか、ということがうたわれていた。  あるいはまた王権は、反抗的な都市への懲罰として、時計や時計塔を破壊するというシンボリカルな行動にでている。たとえば一三八二年、ブルゴーニュ公フィリップ剛勇王は、フランドルの毛織物業者たちの反抗をうちまかすと、その有力都市クルトレーの時計塔の仕掛け人形を「人質」としてディジョンの居城にもちかえった。時刻にあわせて鐘をうつ人形のついた仕掛け時計は、なによりクルトレーの町の誇りであり財力のシンボルだったからである。  いまみたように、時計をつくらせるにあたって国王シャルル五世は、職人をよびよせねばならなかった。専門の時計職人がまだ形成されていない時代には、金属を扱う職人や錠前職人などのうちで、とくに巧みで腕のたつものが、時計づくりにも手をそめるというありかたをしていたようである。つまり塔時計のような大時計の場合には、鍛冶職人や、機械とか歯車を扱う職人で、室内用の小型時計の場合には錠前職人などである。いずれの場合も親方職人をリーダーに、職人たちのチーム作業として行なわれた。ことに大時計については、ペルピニャンの例をすでにみたように、多いときには百名にものぼる職人からなる集団作業であった。初期の時計はたいへん重かったから、時計をつくるにあたっては、塔を補強したり新築すべきこともあり、時計づくりというより建築工事にちかかったといってもよい。そのための材料の動きや、多くの職人たちのための宿や食事、お手並拝見と集まる見物人たち、と、大時計づくりは同時に、いわば町を活性化させるイヴェントのごとき性格をももっていたわけである。  室内用の時計がいつごろからつくりだされたかについては、大時計の場合とおなじく正確には不詳である。技術・経済史家ランデスによれば、十四世紀なかばには文書記録としてあらわれるという。より高度に小型化してゆくためには、当然ながらより高度の製作技術が必要とされる。こまかなことは技術史家たちにまかせるとして、強度の強いゼンマイの使用と、その動力を針に一定に伝達する装置が一般化してくるのは、十五世紀からのことであり、さらにそれにみがきがかかってくるのは十五世紀末から十六世紀はじめ、とされている。そうなると、携帯時計の製作も可能となってくる。  専門の職人がはっきり姿をあらわすのは、フランスの場合、十六世紀からである。一五四四年には、ヴァルランという名の親方以下、パリの七名の親方職人が、時計製造専門職としての団体をつくることを認可してほしい、と、時の国王フランソワ一世に申しでて、七月に許可をもらっている。ようするに専門ギルドが形成された、ということだ。  ついでながら、フランソワ一世の時代というのは、すぐに宗教戦争の内乱状態が引き続くとはいえ、フランスの近代国家形成においては重要な一画期をなしている。公用語としてフランス語を使用すべし、という王令も、その実効のほどには限界があったとしても、この王の治世においてだされたものであった。  その一五四四年の同職団体の規約には、こうある。時計の製造は、規則正しく徳性にのっとって生活し、行動するために必要なのだ。だからこそ、質の低劣な時計が勝手に作られることは望ましくない。ゆえに正規の同職団体が構成されるべきだ、と。時間を操作することが社会規範の問題と密接にからみあっていることを、親方職人たちもまた意識していたのである。  時計づくりの職人たちは、さまざまな職人のなかでも、とりわけエリート的な存在であった。いまようにいえば、最先端技術のノウ・ハウに通じ、それを独占した人びとといえよう。ひとりの親方は徒弟をひとりしかおけない。徒弟期間は六年間であるが、最初の徒弟が四年を終了したら、経過措置として次の徒弟をひとりやとってもよい、という具合に、当初にあってはその数もきびしく制限されていたのであった。  徒弟としての見習修業後に職人となったものは、代表作を作成し、それが認められてはじめて、親方職人への昇格が認められることになる。製作の範囲は時をきざむ機械全般、大時計や柱時計から、置時計、目覚し、さらには懐中時計などの個人用時計にまでおよぶ。パリに続いてニュルンベルクには一五六五年、ブロワには一五七九年、ジュネーヴには一六一〇年、ロンドンにも一六三二年に、おなじように時計職の親方ギルドが形成された。  十六世紀末には、パリで、二十二名の親方職人が仕事場兼ブティックを開いていた。ものの本によれば、十七世紀にはイヤリングふうに耳からさげる小さな時計まで作られていたというが、ほんとうだろうか。いずれにしても時計は、国王のみならず、貴紳や貴婦人たち社会の最上層部の男女にとってのステイタス・シンボルとなっていった。  だが時計製造をめぐっても、宗教戦争ないし宗教対立は、思わぬ影響をあたえることになる。 [#改ページ]   3 実用の時計とシンボルの時計  時計をつくることのできる職人たちが、まだきわめてかぎられた数しかいなかった時代、もとより高価だった時計が個人用につくられだすと、それは、貴族をはじめとした社会的ピラミッドの頂上にのっかっている人びとの、たいそう好むところのものになりだす。十六世紀前半にはそうした現象があらわれてくるのだが、商人たちはいざ知らず、貴族たちの生活や意識が時計による正確な計時を要請したわけでないことはいうまでもなく、はやい話が「高級オモチャ」といったところであった。  ワレぴらみっどノ頂上ニアリ、ということのシンボルである以上、そこでは実用性はさして問題ではない。そうしたニーズに対応するように、十七世紀から十八世紀にかけて、置時計にせよ懐中時計などの携行用時計にせよ、宝石をはめこんだり、彫金をほどこしたり、さまざまに装飾のかぎりをつくした豪華版の時計が、つくりだされることになる。運河や鉄道の敷設以前の時代においては、一般にものを大量に安く動かすことは、まだきわめてむずかしかった。しかし室内時計や懐中時計などについては、小さくて軽いことから、その原料にしても製品にしても、輸送することは比較的たやすい。時計の主要な生産地は、したがって、パリやブロワといった王侯貴族などからの需要にめぐまれ、職人が集中していたところ以外にも、ジュネーヴ、リヨン、ロンドンといった独自な交易ネットワークをもつところが優位にたつことになる。いずれにしても製品の主流は、奢侈品としての時計であった。とくに十八世紀のフランスでは、ルイ十六世様式といわれる超豪華な時計の製作が、全ヨーロッパに名をはせることになる。そこでは、時間を正確に測定することよりも、むしろ装飾的価値がまずもって優先されていたかのようである。  王女たちは結婚にさいして、いろいろな嫁入り道具をもっていったものだったが、そのなかには、しばしば多くの時計が数えられるようになった。いくつかは自分自身で使うためのものであったが、残りは、おつきの者たちに分けあたえるためである。私自身が史料で確認したわけではないが、一説によれば、かのマリ=アントワネットがフランスへ嫁いできたときには、なんと五十一個もの時計が嫁入り道具のなかにあったのだという。それらはようするに御祝儀袋のようなものであって、口悪くいえば、取りまき連中を手なずけるための道具であり、別に、時間を正確に守るようにしなさい、という意味がこめられていたわけではなかった。  ルイ十四世の時代にはすでに、毎朝王に服を着せるとき——というのも、王や王妃は自分では服を着なかったのであり、寝室つきの「着せ係」がいて、着せかえ人形よろしく王に服を着せてゆくのがならわしだったのだが——かならず王つきの時計師が一緒に伺候して、王が身につける時計の時刻をうやうやしくあわせることが、日課であった。男の場合、鎖をつけた懐中時計を胸に、あるいは腰にひそませることは、パリの町中でも十八世紀には流行のファッションだったようである。  この流行におくれをとらないためには、しかし、かなり経済的に余裕がなければならない。そしていつの世も、流行にはまがいものがつきもの。昨今カルチエやセリーヌにニセモノが登場して、本家を怒らせるがごときものである。だが当時の流行たる時計には、もう少し邪気のない、珍妙な工夫が登場した。金のない男たちは、いかにも時計をしのばせているように鎖のみを身につけ、そのじつポケットのなかには何も入れていなかったり、あるいは鎖の先には時計でなく別のものをつけていたり、という具合にしたのである。  なんとも、流行にあわせるのもラクではない。だが滑稽と笑うなかれ、ミメーシス(模倣)といわれるこの種の現象は多くの社会で指摘されているのであって、コピー文化のなかにいる現代のわれわれにしても、似たようなことをしているといえなくもないのだ。それに、愉快でいささか物悲しい、なんとも人間臭い話ではないか。  当時にあって、そうした時計の流行に皮肉をこめた批判のまなざしをむける人物もいた。ルイ=セバスチァン・メルシエである。かれは、その有名な著書『パリ点描』のなかで、「暖炉という暖炉の上にはすべて、ひとつの振子時計がおかれている」と、いささか大げさに書いている。そして「けれども、これはまちがいだ。なんともゆううつな流行ではないか。振子時計ほど悲しい想いに人をかりたてるものはない。いわば諸君の人生が流れゆくことを眼のあたりにさせるのだし、刻一刻と時が諸君の手からのがれさり、もはや戻ってはこないことを、この振子は警告しているのだから」、なんでそんな時計に金をかけて飾りたてるのだ、と。しかし、飾りたてることじたいにシンボル的価値がおかれていたわけだから、メルシエのせりふもいささかむなしい。  さて、ほんらいの計時機能という実用性を重視した個人用時計は、フランスでよりも、イギリスで発展していった。十八世紀のイギリスは——正確にはイングランドは、というべきだろうが——、世界一の時計産出国となり、同時に、時計が時を刻む社会になってゆく。  マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がすぐに頭に想い浮かぶのだが、やはりピューリタン的な要素をもったイングランドから発展したのは、偶然の一致ではあるまい。ピューリタン的な刻苦勉励の精神は、時計による正確な計時と、それに基づいた無駄のない社会生活の組織だてに、よく照応する。フランスはむしろ、頭脳流出国になってしまうのである。  パリの時計づくりの親方職人たちは、十六世紀のなかばから同職団体を形成したのだが、そのころのパリやブロワは、時計職人のメッカとして全ヨーロッパに名がとおっていた。だが、これらの職人たちのなかにもユグノー派、つまりプロテスタントが少なくなかった。それらのユグノー派の職人たちは、十六世紀末にカトリックとユグノー派がはげしくあらそった宗教戦争という災悪を避けて、国外へ亡命することになった。こうして、ロンドンは、フランスの宗教戦争から思わぬ余禄を手にすることになったし、十七世紀から時計製造で有名になるジュネーヴも同様であった。たとえば、宗教戦争をのがれてブルゴーニュのオータンからジュネーヴへわたったシャルル・キュザンのような移住プロテスタント職人が、ジュネーヴの時計工業の基礎を確立することになる。カルヴァンで知られたように、ジュネーヴはプロテスタントの拠点だったからである。  一五九八年にアンリ四世が発したナントの王令で、宗教対立は表面上いちおうおさめられたものの、ルイ十四世治下、ユグノーにたいする迫害はふたたびひどさをましてゆき、一六八五年には、ついにナントの王令が廃棄され、ユグノー追放が行なわれたことが、さらに追いうちをかけた。当時フランスを去ったユグノーは、現在までの研究が確認したもっとも信頼すべき計算によれば、商工業者を中心に二十万人ほどもいたといわれる。それがフランス経済にあたえたマイナスは、少なからぬものがあり、すでに一六八九年にヴォーバンは、このままでは王国の技芸もマニュファクチュール(多くの手工業職人を集めて生産する工場)も衰退をまぬがれないとみて、ナントの王令の復活を王に進言している。しかしじっさいには、十八世紀の後半になって宗教対立が社会生活の前景からしりぞくまで、そして制度的にはフランス革命が勃発するまで、ユグノーは非合法のままにすえおかれたのであった。ナントの王令廃棄の前後に亡命したユグノーたちのなかには、有能な時計職人もふくまれていた。たとえば、ルイ十四世の王室つき時計師をも輩出した親方職人の家柄であったマルチノ家のひとりは、ユグノーであったがために、ナントの王令廃棄のあと迫害をおそれて国を去り、ロンドンに行って名をはせたのである。  こうしたマルチノ家とか、ビドー家といった家系が、パリの代表的な時計職人の家柄としてさかえた。つまり時計製造の親方職は、一般に親子のあいだで受けつがれ、いくつかの支配的な親方職人の家系が形成されたのである。一六四六年の時計製造親方職人たちの新しい団体規約は、従来のものに変更を加えて徒弟数の制限を廃止し、徒弟期間を八年間と定めたが、同時にパリ市内での親方数を七十二名に限定して、競争が過熱しないよう慎重に配慮している。  フランスでは、それらの職人たちが、装飾的な時計をつくることにさまざまな意匠をこらしたのである。宝石や金、銀、クリスタルなどをもちい、その形も十字架、貝や星、ハート、丸、四角、卵、さらには本型など。  ルイ十五世幼少のみぎり、つまり十八世紀はじめの摂政時代に財政改革のために登用されたスコットランドの銀行家ジョン・ローは、ヴェルサイユに時計工場兼職人養成学校をつくり、イギリスから五十人ほどの職人を導入した。今度は頭脳輸入というわけであったが、しかし、じきにローが失脚するとともに、この試みも頓挫してしまい、ロンドンの優位をゆるがすことはできなかった。  フランスから移住職人をうけいれたジュネーヴも、十七世紀から、サヴォワなど山間の貧しい農村に下請け的なかたちで周辺後背地を形成し、そこでつくられた部品をジュネーヴで高級時計に組みたて、ヨーロッパ内部ばかりかトルコ市場などへむけても輸出することに成功していた。十八世紀には、ジュネーヴから取りよせた時計にパリでパリ製の刻印をおして売るといったやりかたすら、とられるありさまであったという。  だがフランスの職人とて、実用性を無視してただただ装飾性を追い求めていたわけではない。職人というよりも、むしろ技術者と呼ぶことができるような、たいへんすぐれた人物もあらわれている。なかでもとりわけ著名なのは、フランス人としてはじめてクロノメーター(精密時計)を考案したピエール・ル=ロワであろう。やはりすぐれた技術を身につけた親方職人だったジュリアン・ル=ロワの長男としてパリに生まれたピエールは、若くして才覚をあらわし、一七三七年、二十歳にして親方となっている。  フランス人の考案者、と書いたのは、おなじころスイス出身の職人でパリで活躍していたベルトゥという人物が、やはりクロノメーターを作成し、またイギリスでも開発が進められていたからである。この分野でも、イギリスは一歩先んじた。つまり、政府が報奨金をだして開発を促進し、コストがさほど高くないものの生産に成功したからである。  クロノメーターが求められたのは、なにより航海のためであった。たえずゆれる船のうえで正常に、コンスタントに機能する時計をつくることは、きわめて難問だったからである。それが可能にされたことで、出航地からの正碓な計時を維持しうるようになり、それは経線の測定など航行位置の決定に多大な利便をあたえることになった。  そのさい留意しておきたい点は、航海術からの要請は、たんに技術上のことではなく、経済と政治におおきくからんでいたことである。ここでもまた、正確な時間の組織化と支配をめぐる動きが、不可分に関係しあっている。クロノメーター開発を競争した英仏は、中世末の百年戦争以来、一貫してライヴァルどうしであった。とりわけ、植民地貿易という経済上の要請と、いまふうにいえば軍事的な世界戦略とのからみで、海上のヘゲモニーをとることは、その重要度をますいっぽうであったといってよい。十八世紀にさかんになる海外学術探検も、イギリスのクックにせよフランスのラペルーズにせよ、その直接の目的は天文観測だの地理学や博物学的関心にあったとはいえ、両国の経済・政治上の戦略展開とわかちがたく結合していたのである。  こうして十八世紀には公共用大時計のみでなく、個人用時計の生産がさかんになり、精密なクロノメーターさえ生みだされるようになったわけだが、農村においてはもちろん、都市においても、一般庶民が個人用時計、とりわけ携行用の時計をもつようになるには、さらに十九世紀を先へ進まねばならない。 [#改ページ]   4 鉄道のネットワークと時間の統一  もし現代社会から、すべての時計が消えうせ、あるいはそれぞれの時計が勝手バラバラに時を刻みはじめたとしたら、いったいどうなるであろうか。もし私にSF作家としての才能でも少しばかりあれば、よろこんでとびつきたくなるような題材ではないか。まず大混乱はまちがいなし、場合によっては、すべての機構や仕組みがパンクする危機に瀕するだろう。  ということは、われわれの社会生活は、現在の時計が示すような、機械的で定量的に、そして正確に区分された時間に規制されて成りたっている、ということにほかならない。そのような量として正確に計られる時間、という形式における人と時間との関係が成立し、支配的になるのは、それほどむかしのことではないのだ、というのが、この話の出発点であった。  たしかに、十四世紀において一部の都市に機械仕掛けの大時計が登場しはじめたことは、一日を二十四等分する発想、つまり時間を等量に分割して計るというとらえかたが、社会の一部に確立しだしたことを意味した。すでにそこには、なにがしかの正確さへの希求もまた、きざしとして内包されていたわけである。しかし、いかんせん初期の時計は、しょっちゅう故障した。それに時刻をあわせるといっても、規準としてたよることのできる時報などがなければ、結局のところは、太陽の動きとズレないように調整する、というやりかたがとられたのであった。すぐとなりの町どうしで、時計の示す時刻がまるでズレているなどということも、きわめてふつうのことであった。  一日の起点をどこにおくかということじたい、都市によって一定ではなかった。つまり現在とおなじように真夜中だったり、いまの正午、つまり太陽の南中時であったり、ときには日の出や日没時に設定されていたこともあったという。やがて一般に、真夜中から真夜中、そして午前十二時間、午後十二時間というスタイルが標準的なものになるのだが、しかしそれぞれの現地時間には、経度にともなう差があることになる。  すぐに故障するといった技術面での制約は、とりあえず脇においておくとしても、都市を中心に貨幣経済が活性化しだした中世末においてなお、正確な統一的計時を要請するような社会・経済条件は、まだ存在してはいなかった。まして、自然のリズムを基調にした農村社会においては、それはもっとはっきりしていた。  だいたい、はじめ大時計の針は一本のみだったらしい。それに分を示す分針がつけ加えられて、何時何分という表示になりだしたのは、十六世紀からのことだといわれている。十六世紀からひろまりはじめた個人用時計が十八世紀において社会上層部に一般化していったとき、そこでは正確な計時という実用性より、むしろシンボル的価値が優位にあった、ということを考えあわせるならば、分針の登場をもって、分刻みの正確さを追求する社会的要請があったとは、ただちにはいえないだろう。しかし、ひとつのステップだったことはたしかである。  ゼンマイの改良とかテンプの使用といった純然たる技術の話には、ここでは立ちいらないことにするが、正確な計時が可能になるためには、当然ながらそのような技術革新が前提である。そのような前提条件は、十九世紀の到来までには、ほぼ満たされている。つい最近クウォーツにとってかわられるまで変わることのなかった基本的な技術水準が、用意されたのである。  だが、一定の正確さが保証された私用の時計が、上層部のみでなくよりひろく社会全般に行きわたるには、まずは、価格がさらにさがらねばならない。それを実現したのは、イギリスやフランスの時計産業ではなく、スイスの時計産業であった。比較的安価な労働力を基盤に、熟練を要する仕上げ工程の手仕事的な職人作業と、機械工程とをドッキングした方式で、十九世紀なかばまでには、すでに圧倒的優位をほこるにいたる。一八七〇年代になると、アメリカ合衆国が大量生産方式で時計市場に参入する。ようするに部品の互換性を確立し、ユニット化した製品を機械化された分業システムで量産する体制がつくられたわけである。内田星美氏のデータによれば、一八八三年、アメリカン(ウォルサム)時計会社では約二千人の従業員で日産千二百個の懐中時計がつくられ、組立て・仕上げ工程をのぞけば、工作機械の自動化すら実現されていた。スイスもまた工場生産化によってこれに対応した。もっともその陰では誇りたかい職人労働者たちが、失業や転職の憂き目をみたのでもあったが。  スイスは二十世紀に入るころには、世界の生産量のおよそ九割がたを占めた。一八八五年に輸出された時計は約三百万、それが一九一三年には約一六八五万個にのぼり、価格は逆にほぼ半減したのである。こうしたなかでフランスでも、十九世紀末から今世紀はじめにかけて、ふつうの庶民の家庭にまでかなり時計が普及することになった。  しかしその場合、時刻の統一的表示は、どのようになされたのであろうか。その点で決定的ともいえる役割をはたしたのはラジオの時報であったが、それは二十世紀になってからの話であって、それ以前には、鉄道が重要な位置をしめていた。じっさいフランスばかりでなく、イギリスでもアメリカ合衆国でも、鉄道が網の目状にはりめぐらされてゆくことと、正確な計時の要請、および時計の一般への普及とは、ほぼ並行現象としてあらわれてくる。 [#挿絵(img/fig2.jpg、横×縦)]  フランスの中央部、ロワール河が中央山塊のふちにそってずっと迂回しはじめるあたりに、ニヴェルネという地方がある。県でいえばニエーヴル県にあたるが、その地方の日常生活史を研究しているギ・チュイリエによれば、県庁所在都市であるヌヴェールで、ラジオの時報でもって時刻の統一が可能になったのは、やっと一九二五年のことであった。それまでは、郵便を運んでくる鉄道の係が、毎朝、自分の時計を駅の時計にあわせ、各郵便配達夫は担当の郵便物を受けとるときに、その係の時計にあわせて自分たちの時計を調整し、そしてそれらの郵便配達夫たちが、配達先の家々に時刻を知らせて統一を可能にしていた、という。つまり郵便配達をして歩いた人たちは、同時に時間も配達してまわっていたわけだ。鉄道会社では、すでに一八八〇年から電気時計を採用し、各線のすべての駅の時刻表示が統一されるようにしていた。  フランスの鉄道建設は、一八三〇年代から徐々に進んで、幹線が整備されるのが第二帝政時代、幹線以外にまでひろがって、地方もふくめた本格的なネットワークが形成されてゆくのは、ほぼ一八八〇年代からのことである。本数がふえ、接続が複雑化してくれば、当然ダイヤグラムを編成せねばならない。それには、時刻表示が全線にわたって統一されていないことには、不便きわまりないばかりではなく、事故の危険すら生じかねない。したがって、鉄道網の拡大こそがまず第一に、統一的な時刻表示を可能にする標準時間の設定という課題を、現実につきつけたのであった。  鉄道網の拡大は、産業革命で先行したイギリスの方が先んじていたから、したがってこの課題にもまたイギリスの方が先に直面することになった。すでに一八四八年、ロンドン・ノースウェスタン鉄道会社は、グリニッチの王立天文台が測定する時間を標準時と定め、全線に適用しはじめている。鉄道のみでなくイギリス全国にグリニッチ標準時が適用されることが法によって定められたのが一八八〇年だから、鉄道の先駆的位置がよくわかる。  一八七八年には、カナダのフレミングという技師によって、つぎのような提案がなされる。グリニッチ時間を標準時とし、地球を経度十五度ごとに二十四区分してそれぞれの現地時間を定め、時差を定置することで地球全体の時間のすすみを統一的な尺度のもとにおこう、というのである。一八八三年には、アメリカ合衆国の鉄道会社がこのシステムに準拠して、北米大陸をタイム・ゾーンに区分する方式を採用した。そして同年にローマで開催された国際測地学協会での議論をうけて、翌一八八四年十月、ワシントンでの第一回国際子午線会議でもって、グリニッチ子午線を本初子午線とすることが決定された。つまりグリニッチ時間を標準時として、地球を一時間ずつずれる二十四の時間帯に区分したのである。  グリニッチを経度ゼロとし、その時間が世界の標準時とされるにいたったことは、たんにイギリスでそれが先行的に採用されていたからというばかりではなく、やはり十九世紀におけるパックス・ブリタニカ(イギリスの傘のもとでの平和)といわれたような世界政治・経済上でのイギリスの圧倒的優位をぬきにしては、理解しえないであろう。じっさいこのシステムの採用にもっとも反対したのが、アイルランドと、そしてフランスだったというのは、いかにも事態を象徴している。  フランスは、グリニッチよりも九分二十一秒さきになるパリ時間を主張し、じっさい一八九一年には、そのパリ時間をフランス標準時とすることを法で定めてしまう。しかし多くの国が徐々にではあるが国際会議の決定をうけいれてゆくなかで、とうとうフランスも一九一一年にグリニッチ時間を採用することになった。しかしそのさいの文言は、「フランスとアルジェリアにおける法定時間は、パリの平均時を九分二十一秒おくらせたものにする」という表現であった。はやい話がグリニッチ時間を標準にするということなのであるが、あくまでそうはいわないのである。そして一九一二年にはパリで国際時間会議を主催して逆襲にでる。より正確な時刻表示をいかに正確に各地に伝えるかという点で、フランスはイニシアティヴをとることに成功するのだ。つまり経度ゼロと、標準時の起点はグリニッチだが、その時刻はパリ天文台で計測された天文暦にもとづいて設定され、エッフェル塔から世界各地に発信される、というシステムが採用されたのである。時間をめぐる国際政治上のかけひきが展開されたのだった。  鉄道の普及ということは、人びとにとっての移動とか空間の把握といった観点からみても重要なのだが、ここでは、鉄道が時間の統一をうながしたと同時に、正確さへの配慮を人びとの心のなかに有効に浸透させていったという点を指摘するにとどめておく。分刻みで提示される時間を正確に守ることは、運転手たちに求められるばかりではなく、利用者みなに等しく要請されるからである。前節でみたように、クロノメーターの開発をうながした航海術の方が、鉄道のはるか以前から正確な計時を要請していたのだが、これは一般の人びとにとってはあまり縁がなかった。それにひきかえ鉄道は、経済や社会生活における不可欠の道具となってゆくことで、人びとの時間にたいするかかわりかたをおおきく変えることに力を発揮したのである。 [#改ページ]   5 時間の秩序と秩序の時間  こうして、とりわけエリート階層に属する人びとというわけではなく、労働者や農民をふくめて一般ふつうの人びとが、日常生活のなかで時計による時間の把握に親しむようになり、また時間の正確さに敏感になってゆくにあたっては、価格の低い時計の普及と、そして鉄道網の発展がおおきな役割をはたしたのであった。それは、十九世紀もそろそろおわりに近づいたころに本格的に展開しはじめ、第一次大戦をはさんで、二十世紀にひろまっていった現象とみなすことができる。  しかし、たとえば昨今の日本にみられるハウス栽培といった、完全に産業化された人工的生産システムをまだ知らない農村においては、仕事のいとなみと自然のリズムとは不可分に対応している。だから、時計や鉄道、ラジオの時報やプログラム、子どもの学校の授業時間などに示される量化された時間が入ってきても、それは日常生活のひとつの部分をしめるものとしてであった。農村での時間は、四季の変化、天体の動き、農事暦や宗教暦、さらには家族や村の歴史とも結びついた、いわばさまざまな質をおびた時間と、量的時間とがかさなりあっていたのであって、量的時間が圧倒的に支配力をもつようになったわけではなかった。しかしながら、中世末において都市に公共用大時計が出現して以来きざした、時計をもちいた正確な時間の秩序だてという社会の組みたてかたと、人びとの心のなかへのその内在化とが、こうして五百年ほどをへて、社会の全体へとおおきくひろまっていったのである。  もちろん、鉄道の建設を推進した政治家や実業家たちは、人びとに時間をムダなく正確に守らせるようにするためにそれを推し進めたわけではなかったし、時刻表示の統一、すなわち標準時間の設定も、結果として生みだされたものであって、それが目的だったわけではない。利用する人びとにしても、はじめのうちこそ物珍しさが先にたったとしても、人や物資の移動に便利だからということでそのサービスを消費しはじめたわけで、よもや自分たちのそうした消費行為が、みずからの時間の意識を規定してゆくことになろうなどとは、意識していないほうがふつうであったろう。  じつは、社会の支配層あるいはエリートたちが、もっとはっきりと意識して、正確な時間をムダなく守ることを人びとに教えこもうとした領域は、ほかにあった。  まず、時代的にみればほぼ鉄道の建設と並行して進む工場労働の組織化が、それにあたる。おなじくそれらと並行して、さらにはそれらに先だってあらわれた領域が、教育の場や、あるいは軍隊とか監獄といった、より直接に人びとをしつけ[#「しつけ」に傍点]、教えみちびこうとする場であった。ミシェル・フーコー風にいうとするなら、近代社会にふさわしい人間をつくりだし、調教を実現するひとつの重要な鍵として、正確に秩序だてられた時間の厳守ということがかかげられたのだ、となるだろう。正確な時間の秩序が人びとの心に内在化されるようにすることで、秩序の時間が社会をつらぬくことがめざされたのだ、と。つまり時計が社会支配の明確なシンボル、権力のシンボルとして人びとの目にあまりにもあらわであるとすれば、そのシンボルは一種の直接的な記号のごときものであるから、支配の効率はさほど高くはない。しかし時計の時間が人びとの生活のなかに組みこまれ、またその時間秩序を守ることを人びとが自明のこととして内発的に担うようになるとすれば、秩序はより効率よく社会体内をつらぬくことになり、時間を統御する権力の存在じたいが目にみえないものとされてゆくであろう。  鉄道の建設も工場の発展も、産業資本主義の展開のふたつのあらわれであってみれば、両者が同時並行していることは当然であった。ムダのない正確な時間が尊重されることは、工場においてはあきらかに、生産性の向上という考えと結びついている。ここにおいて「時は金なり」は、かつての宗教性を払拭され、文字どおりオカネの話となっている。まさに時間は貨幣なのである。ただしかし、たんなるゼニゲバになるのではなく、同時にやはり、倫理ないし社会道徳として主張されることに注意しなければならない。  このことは、教育や調教の場においてもまた、時間の厳格さとならんで、同時にそれと表裏一体で刻苦勉励型の勉学や生産労働が称揚されだしたことにも、みてとれるであろう。むしろそうした教育などの場でのほうが先行すらしているということは、近代以降において教育がはたすことになったイデオロギー的役割を示していて興味ぶかい、というべきか。  すこし具体例をみてみよう。  パリにあって、貴族や上層ブルジョワジーの子息のみが入学する寄宿制のエリート校であったコレージュ・マザランでは、十八世紀末の時間割は、おおまかなところ、つぎのようであったという。朝は五時半に起床、同四十五分までに着衣・洗顔、四十五分より学業開始、七時十五分朝食、あとは十一時四十五分昼食、午後七時夕食、それぞれの食事のあいだは学業、午後九時には各自それぞれの部屋に戻り、部屋には鍵がかけられる。時間厳守をはじめとした生活の規律は、軍隊や監獄なみであったといわれる。  そういう寄宿学校に子息をあずけたエリート階層の親たちが、とくにサド趣味をもっていたわけでも、子を憎んでいたわけでも、もちろんない。現代風にいえば、むしろ熱心な「教育パパ・ママ」であった可能性のほうが高いのであって、すべからく教育的配慮のなせるわざ、といえよう。  こうした時間のしつけは、家庭内にも浸透してゆく。たとえば、より時代が先にすすんだのち、第二帝政下のブルジョワ家庭における娘たちの教育が、その恰好の例となるだろう。ブルジョワ家庭に生をうけた女の子たちは、十歳から十一歳になると、将来しかるべき良妻賢母になるように、いろいろと手習いをはじめさせられることになる。その場合、まずなにより注意されたことが、時間をマジメにムダなく秩序だてる態度を身につけさせることであった。そのために勧められたのが、一日のスケジュールを時間割にしてきちんと与え、それを守るようにしつけることだったのである。  一例では、朝六時の起床からはじまって夜九時半の就寝まで、ほぼ一時間ごとに、読み書き計算・裁縫・音楽・宗教などの学習項目と、食事および休憩がびっしりとスケジュールに組みたてられ、これをモデルにしなさいと推奨されたりもしている。  いずこのブルジョワ家庭でもこの時代、現実にすべてそうした息もつまりそうなスケジュールが実行されていたか、ということになると、それはたしかに留保をつけてみなければならないであろう。しかし、この時代に数多く出版された母親むけや娘むけの教育書や、教育効果をねらった読み物などが、いずれも、ほとんど同様な時間の秩序、規則正しい生活の組みたてを強調して勧めていることを、いくつかの研究はあきらかにしてくれている。  フェミニズムの立場からすれば、というよりも、あえてフェミニズムの立場にたたずともけしからんことなのではあるが、個々の時間帯に教えられることの内容より以上に、まず第一に、そうした秩序だった規則正しい時間の組みたてを娘たちに教えこむことのほうが重視され、それが道徳教育の出発点ともみなされたのであった。そうした時間の秩序を守る倫理を娘たちの心に内在化させておけば、やがて娘たちが妻となり母となったのちに、その家庭生活全体に秩序の時間がしみわたるであろう、というわけだ。  フランスで民衆の子どもたちが、そうした時間の秩序を教えこまれてゆくのは、学校をつうじてであったが、それはおもに、一八八一年と八二年に初等教育が無償義務化されて以後のことであり、この場合には、時代的に鉄道の拡張普及と一致していることになる。さらに徴兵制による軍隊での訓練も、若者たちに時間の秩序厳守の倫理を植えつけることにあずかって力があった。ブルジョワの子どもたちは、成人してのち社会をリードする位置につくべきものとして、はやくからそうした倫理を内面にそなえるようにしつけられた、といいうるであろう。  さきほど、コレージュ・マザランの規則があたかも監獄のごとくだった、と書いた。あるいは第二帝政下、『若き母親たちへの手紙』という子女教育の書をあらわしたレリア・ロンという女史は、従わない子どもを「ただすための最良の方法のひとつは、つねかわることなく、牢屋 prison だと思う」と書いている。もちろんそのさいの牢屋とは、字義どおりの監獄ではなく、罰として子どもをひとり閉じこめて沈思黙考させ、反省をせまるための静かな部屋、という意味であった。しかし、そこで≪prison≫という表現が、ためらいのあともなくもちいられていることは、注目してよい。  じっさい十九世紀はじめから、社会の逸脱者を「矯正」するための方法として推奨され、監獄や少年院で実行されてきたのが、ひとつには労働への従事ということであり、もうひとつが起床から就寝まで厳格に秩序だてられた時間を厳守させる、というやりかただったのである。当時の少年院規則などをみると、規則を定め守らせようとする側がいささか倒錯的ではないのかと思わせるほど、異様なくらい時間の秩序厳守が行なわれていたことがわかる。しかもそれを推奨した人たちの中心には、なによりその時代の博愛主義者たちがいたのであり、かれらは、まさに心底から教育的配慮をもって立ちのぞんでいたのだ、という点が、逆におそろしいといわねばならない。  こうした時間秩序をめぐる状況は、十九世紀やフランスに特有なことではもちろんない。われわれが、なんの気なしにあたりまえと思ってかかわっている時間のありかたが、じつは社会秩序や権力のありかた(いかに教育的といおうとも、監獄はもっとも如実な権力装置のひとつではないか。そして学校もまたそうではなかろうか)と、ふかいところで関係していることを、フランスのこのような歴史は端的に示してくれている。それをおさえておきたい。そしてまた、現代において時間にあくせくと拘束されている点では、日本のほうがはるかにフランスよりも「先進国」なのだ、ということも。 [#改ページ]   6 聖月曜日の労働者たちと工場の時間  十八世紀も末ちかく、大革命直前のパリの情景をいきいきと描いた作品として有名な、ルイ=セバスチァン・メルシエの『パリ点描』にはすでに一度登場ねがったが、そのなかに、つぎのようなくだりがある。 [#1字下げ]「一部の民衆が極端に貧窮状態にあるのは、たいていのところ、かれらが月曜日に居酒屋で酒代に金を浪費してしまうからである。ようするに労働者たちはみな、月曜には休んで働かない。それは労働者たちにとって、むかしからの抜きがたい慣習なのである」。  ここでメルシエがとりあげている労働者というのは、一部にマニュファクチュールの労働者たちをふくんでいたとも考えられるが、おおむねはパリの手工業的な職人労働者たちのことである。かれらは週末に給金を手にすると、日曜日はもちろん、月曜日にも仕事をせず、仲間とおちあうと、あとは呑んだり騒いだり。あたかもそれは、毎週くりひろげられるお祭りのごとくであったから、聖月曜日などと呼ばれることになる。ときに火曜日にまでおよんだこの風習について、もうすこし先のくだりでメルシエは、さらにこう書いている。 [#1字下げ]「かれら(労働者)は、なぐさめといえば、まずブドウ酒しかない。ブドウ酒のみが、労働のつらさや疲労をわすれさせてくれるし、かれらがこなしている荒い作業のたいくつな単調さを、まぎらせてくれる。だから、かれらがブドウ酒を呑むのはしょうがないのだが、居酒屋のオヤジどもが有害な混ぜものを酒に添加するのは、やめさせねばならない。毒を盛っている居酒屋の数や、関の酒場の数をへらそうではないか」。  ここで関の酒場とでてくるのは、市門の外にあってガンゲットと総称された安酒場のことである。パリにはまだ、内と外とを区別する柵が四囲にめぐらされていたのである。七月王政下のパリの労働者世界をみごとに描いた喜安朗『パリの聖月曜日』に詳しいが、市門の外にあった酒場では、入市税がかからないぶんだけ酒食が安くあがった。いっぽう市内の居酒屋では入市税のぶんだけ高くなるわけだが、それを安くおさえるために、しばしば不良な混ぜものが酒に混入させられたというわけである。メルシエは、啓蒙思想の立場にたっていた人物であったから、週日のうち二日までもが仕事にではなく酒を呑むのに使われてしまうことにたいしては、当然批判的だったのだが、フランス史上最初のルポライターともいわれるように、かれはまた都市民衆の苛酷な生活を熟知し、それに同情的でもあったから、いちがいに酒をとりあげて事たれりとするわけにいかないことも、理解していたのである。 [#挿絵(img/fig3.jpg、横×縦)]  メルシエの時代、関の酒場として人気が高かったのは、セーヌ左岸つまり南側では、セーヴル、ヴォージラール、アンフェールといった市門のはずれであったが、右岸、つまり北西にあるポルシュロン、北東のクールティーユのにぎわいは、とりわけ他にぬきんでており、そのぶんまた暴力沙汰の多さでも記録に残されている。民衆街区といわれるような居住区は、シテ島から北の方に多かったから、歩いて行くには北の市門の方が便がよい、というのは自然のなりゆきであった。なかでもクールティーユのランポノーという酒場は、「ヴォルテールやビュフォンより千倍もの多くの人びとに知られている」といわれるほど有名で、その名からきたランポネという動詞が市外の酒場で呑むことを意味するものとして使われたくらいだったと、メルシエは書きしるしている。  さて、日本でいえば江戸っ子の宵ゴシノ金ハ持タネエ式のこの慣習は、パリ特有というわけではなくフランス各地にみられたし、またフランス特有というわけでもなく、前工業時代のイギリスでも広くみとめられている。  この慣習を現象面からみれば、たしかに酒におぼれている状態はあったわけで、やがて一世紀ののちにゾラが、第二帝政下の社会をモデルに『居酒屋』に描いたのは、そのような側面であった。そしてゾラの世紀末には、アルコール中毒の問題は、社会病理、とくに都市の病理として「識者」の問題意識に明確に登場している。だがメルシエの世紀末において、この聖月曜日は、かれが指摘するようなウサ晴らしということだけではなかった。この慣習のベースには、仕事の手順や生活の組みたてを、親方や主人といった他の者から指示されるのではなく、自分たちで思うままにやってしまうのだ、という職人的な自立を誇りとする態度が底流としてあり、生活のなかに慣習化されたそのような時間へのかかわりかたがあった、とみることができる。  じっさい、メルシエの眼からすると貧民で一括されてしまうとしても、月曜日に仕事もせず酒代に蕩尽できるということは、ほかの日にやる仕事からの身入りがさほど悪くない労働者たちが、聖月曜日の主役だったと想像される。半世紀ほどのちのデータとなるが、一八四八年のパリ商業会議所の調査では、月曜を休みにして呑んでいるのはもっとも収入のよい労働者たちだ、という調査結果が出されている。  規律化された時間とはまるでかけ離れた、そして規律化しようとする側からみればおよそグウタラで倫理性の欠如した、このような時間の感覚や使いかたは、生産性という観点とも、分業化された工場労働とも、まったくそぐわない。そこで、時間厳守の態度が道徳倫理として主張され、労働の場として工場が比重を高めてくるとき、就業規則のなかでも、とりわけ労働時間をめぐる対立が、はっきりとおもてにでてくることになる。  フランスではいつごろまで、聖月曜日に代表されるような時間のもちいかたが存在したのだろうか。都市によっても職種によっても、いろいろ差があったことは当然だが、おおむね第二帝政期までは、聖月曜日の慣習は広範にみられたものであった。  それにたいする経営者側の反応にも、経営規模や職種によって、かなりの差があった。十九世紀におけるフランスの産業化は、イギリスのように急速には進まず、徐々にしか展開しなかった。そこで、経営の性質も、北フランスの紡績・織布工場や、ル=クルーゾのシュネーデルの鉄鋼工場のような、徐々にあらわれてくる大規模なものを一方の極として、職人や見習いを一人、二人使っているだけの、むかしながらの親方職人風経営という他方の極にいたるまで、その幅はまことにおおきかった。  第二帝政下の労働者生活の状況を克明に研究したデュヴォによれば、みずからも職人労働者とほとんどかわるところのなかった親方職人風経営者は、しばしば聖月曜日の慣習を寛容に承認していた。いわば日曜は家族ぐるみの休みであるのにたいし、月曜は、職人仲間のうちでのたがいの結びつきを確認し、強めるためのつきあいの時であった。もっともそうした親方職人風経営者が、すすんで慣習を認めていたのか、それとも職人を確保するためにしぶしぶ認めていたのか、そのあたりは知るすべがない。  他方、まったく容認しようなどと考えもしなかったのは産業資本家たちで、なかにはアルザス地方の一実業家のように、日曜の休みすら認めず、ひたすら生産の熱意に燃えたぎった激しい人もいた。一般に産業資本主義の初期の段階にあっては、労働者たちはもっぱら生産のための労働力としてのみ考えられており、一日の労働時間も十二時間や十四時間、場合によってはそれ以上のことすらあった。さまざまな労働運動の成果もあって、十時間労働法は一九〇〇年に、一九一九年には八時間労働法が制定されるが、法の制定がそのまま実態を意味しないことは、今もむかしもかわりはない。労働者がまた大量の商品消費者でもありうるという観点から、大衆消費市場の構成者として再評価される余地は、少なくとも世紀転換期にいたるまで、まだほとんどありえなかった。  大規模な工場で機械を相手にして、長い一日の労働時間に拘束されだしたとき、労働者たちはしばしば手抜きでもって、これに対応した。経営者や工場監督は、こうした手抜きをやめさせるべく悪戦苦闘することになる。  みだりに休まず毎日やってくること、そして始業・終業時間、休憩時間などをきちんと守り、最大限効率よく働くこと、というわけで、工場監督や、あるいは職制の役割が、にわかに注目されるようになった。いちばんてっとりばやいやりかたとしてとられたのは、解雇するぞという威嚇と、罰金ないし減俸措置だった。十九世紀の工場は、まさに時間の秩序をめぐる社会的抗争が、きわめて顕著にあらわれた場となる。  一八六四年七月、ランスのとある工場で、月曜日に出勤しない労働者には罰金が課される、という規則が貼りだされると、それを不満とした労働者たちはストライキに入った。結局この規則は撤回され、労働者たちは月曜に仕事を休まないよう「モラルとして」約束したにとどまった。この場合には労働者側の実質的勝利ということになる。あるいは初期の工場や炭坑の労働者の場合、半農半労働者的な労働のスタイルをとる者は少なくなかったから、この場合にもかれらは、工場の産業的時間にはそもそもなじまなかったし、農繁期には農のほうに力を注いだりしたのである。 [#改ページ]   7 機械の時代と時計の時代  第三節でクロノメーターの開発についてふれたさいに、フェルディナン・ベルトゥという時計職人が登場した。ヌーシャテルに一七二七年に生まれたベルトゥは、スイスが生んだもっともすぐれた時計職人のひとりであったが、十八歳のときにパリにのぼったのち、フランスを活動の場にし、最後はフランスに没した人であった。かれには、『百科全書』の項目用に書かれて、のち単行本として出された、時計製造についての克明な技術史の本のほかに、時計による時間測定の歴史についての一書があるが、ジャック・アタリによれば、一八〇二年にフランスで出されたその本のなかには、おおむねつぎのようなくだりがある。  人間が、社会生活における仕事のために必要な全時間をもちいることができるのは、時計の使用によってにほかならない。それによって人間は、労働の時間、休息の時間、そして食事や睡眠の時間を規則だてることができる。そうやってうまく時間を配分することによって、社会じたいが時計のように動く。うまく組織だてられれば、社会は、その全構成員の仕事が一連の動きをなすような、そういう一種の仕組みにつくりあげることができるのである、と。  それは、まさに時計仕掛けの社会をイメージさせるし、あるいは、一連の流れ作業で成りたつ機械時代の到来を、予告するものともいえる。  前節ですでにみたように、十九世紀は、時間の秩序だてをめぐる社会的抗争が、きわめてはっきりとあらわれた時代であった。機械が導入され、生産性や効率性が第一に考えられるようになってゆくとき、そして生産も賃金も労働量も、すべて、量として計算される時間との関係でとらえられるようになるとき、労働の場はとくに緊張をはらんだものとなった。  量としてまちがいなく計算される時間というのは、いうまでもなく、正確な時刻表示のできる機械としての時計が与えてくれる時間である。随所に、それもほとんど狂わない時計があふれかえっている現代社会では、われわれは、時間というのはそれでアタリマエ、と思い、六十分、六十秒といった単位の集合として、もっぱら時間をとらえているかと思いこみがちである。つまり、まったくニュートラルな量としての時間に、慣れっこになっている。しかしそういうわれわれでも、たとえば、面白い話に夢中になればアッというまに時がたち、つまり時間を短く感じ、つまらない講義なんぞに出ようものなら長くて長くてかなわない、と思うではないか。あるいは何かを待っている場合、待つことに感情移入が強ければ強いほど、時間のすすみを遅く感ずることは、誰しも一度や二度は経験をもっていることだろう。  してみると、時間の感覚や意識、ようするに時間という観念は、いまでも量的なものとしてのみあるわけではなく、質的要素と不可分に関係していることが、ただちにわかろうかというものだ。たしかに、いわゆる産業社会においては、時間における宗教的な質は、死をまえにしたときでもなければ、ほとんど後景に姿を消してしまっているかにみえる。しかし、いまのべたような心理的なものもふくめ、さまざまな質的要素がやはり介入しているのであり、人は時間を純粋に量としてとらえているわけではないのである。  はやい話が、いつの時代にも、時間は量と質との双方をはらんだ観念なのだが、ただ機械仕掛けの時計の、ことに正確なものの出現このかた、量の側面が圧倒的に社会生活の舞台の前景をしめるにいたっている、ということなのである。そしてそれは、経済との関係でいえば、機械制工業生産の時代へ突入してゆくことと、対応していた。それは十九世紀をおおきな過渡期とし、世紀転換期には明確なものとなってくる。アンリ・ベルクソンが、生命の内的自発性を強調して独自の存在論、時間論を展開したのは、まさにこの定量的で均質的な物理的時間の支配がつよまってゆくさなかにおいてであった。またゲオルク・ジンメルは一九〇〇年、「メトロポリスと精神生活」のなかで懐中時計の全般的普及のインパクトについて言及し、現代の都市生活における加速化、正確さや計量性の増大という現象を、経済行動にばかりではなくより一般的な人間関係においても指摘している。  じつは、その機械の時代へと入ってゆくまえ、機械の生産と改良の先端を走っていたのが時計製造業だった、ということが、また事態をよく象徴してあらわしている。  蒸気機関ではなしに、時計こそが、近代工業時代のキーとなるマシーンにほかならないという『技術と文明』におけるルイス・マンフォードの指摘は、さまざまな意味であたっているのである。  十八世紀のとくに後半から十九世紀にかけて、蒸気機関が開発されたり、さまざまな工作機械が、自動織機などをはじめとして開発・改良されだすことになる。そのとき、すでに時計製造において開発改良され、実用化されていた技術が、直接、間接に、おおきな役割をはたした。歯車とその正確な噛みあわせや、バネとかビスの活用、正確な動力の伝達装置などが参考になりうるだろうことは、私のような技術オンチの素人でも想像がつく。  あるいは、時計技術者が、同時にまた工作機械の開発者であったり、あるいは開発のために技術協力するということが、各地でみられた。たとえば、フランスの時計技術者であり、自動人形オートマットの製作では第一人者だったヴォーカンソンがいる。ベルトゥより一世代ほど先輩にあたるかれは、絹に関連したマニュファクチュールの監査官でもあったが、時計や自動人形での技術を生かして絹糸自動紡績機や自動織機などの開発にたずさわり、水の汲みあげポンプの発明でも名をのこすのである。まさにいずれも、自動機械であり、エネルギー量を正確に按配し、一定に平準化された連続作動を可能にする仕掛けであった。 [#挿絵(img/fig4.jpg、横×縦)]  機械の時代への先導者の役割を、時計製造業がはたしたのは、その技術水準の先端性ゆえというばかりではなかった。製造工程を分業化して、それぞれの工程をうまく組みあわせて最終的製品にするという分業生産システムが、はやくから現実にうつされていったのも、時計製造業だったのである。  初期の時計塔の大時計の時代から、作業が親方をリーダーとした職人たちのチーム・ワークだったことは、すでにのべた。いわば分業にもとづくチーム作業だったのだが、それは室内時計や小型の個人用時計が主流の時代に入っても、同様であった。たとえば内部機構をつくる人、文字盤をつくる人、枠をつくる人、さらにそれらを組立て、仕上げる人。枠もさらに金枠製作と、彫金をほどこしたり七宝仕上げにしたり、あるいは宝石をはめこみ磨く人など、内部がこまかに分業化されることは少なくなかった。文字盤専門とか、ゼンマイ専門とか、枠専門とかに分業化され、最後に仕上げ専門の工程で組立てが完了されるという分業システムは、十七世紀後半からのジュネーヴではっきりとみられた。やがて時計親方職人がとりしきるのは内部機構のみとなり、さらにその加工や組立ても分業化され、親方はいわば分業の組織者といった性格をこくするようになってゆく。  内田星美氏によれば、ロンドンの高名な時計親方職人トマス・トンピオンの工房では一六九五年、三人の職人、書記一名、徒弟七名でもって分業が組織され、同種の部品の互換性を高めるべく追求されていた。そして十八世紀なかばともなれば、さらに多くの職人による分業がふつうになり、有名な親方はみずからヤスリ仕事をするのではなく、設計図をひいて各部分を専門職人につくらせ、それを買いあげ、組立て調整して自分のネームと製造ナンバーをけずりこむ方式が一般化していたという。ディドロとダランベールの『百科全書』では、振子時計について十五の専門工程に、懐中時計については二十一の専門工程におよんで分かたれていることが指摘される。  しかもそれぞれの工程の職人が、自分たちの作業場でおのおの仕事をするのではなく、どうせなら一個所にまとまってやれば、それだけ効率もよくなるだろう、という考えかたが出てきたとしても、不思議ではない。じっさい、すでに十八世紀の末ちかくに、フランスの時計製造業者ジャピィは、その方式を実現しはじめていた。  一七四九年、スイスにちかいモンベリアール地方に生まれたフレデリック・ジャピィは、スイス・ジュラ地方のラ=ショ=ド=フォンで時計職人として修業をつんだのち、ヌーシャテルに自分の小さな店をもつことから出発した。やがてモンベリアールに戻ったかれは、スイス・ジュラの時計業者と大型の契約をかわし、完成直前の状態まで製作したものをジュラへ輸出してスイス業者がそれを完成させるという方式に参加する。一七八〇年までにすでに五十人からの職人や徒弟をやとって「大量生産」をはじめたジャピィの工場は、一七九五年には年間四万個の完成前製品をジュラへ輸出するまでになる。ジャピィも、かれがやとった職人たちも、プロテスタントの信者だったといわれるが、かれが具体的にどのようなプロセスで職人をあつめて工場を組織だてたのかについては、よくわかっていない。  もちろんこの時期の分業化は、熟練職人たちの分立であって、全体が機械化されて結びつけられた分業ではない。しかし、時計という小さな精密機械を正確に効率よく作るために、分業化と工場集中化とが、他の部門に先がけて成立させられていたことは、たしかであった。のちに機械が導入された工場で大量の労働者をあつめて実現される、分業化と流れ作業の工場生産方式の基本的コンセプトは、すでにそこに認められるのである。  ジャック・アタリがあげているジャピィの一協力者の言によれば、かれは日頃から、正確な時間にしたがって行動することを習慣にしていた、という。そして製造所を、すべての仕組みが数学的な規則性をもって相互に連動し、要求される効果を生みだしうる巨大な時計のように[#「時計のように」に傍点]仕立てあげる管理方式を、考えついたのだという。しかも、巨額の投資が無価値に帰さないように、すべては極限の速度をもって機能しなければならない、と。まさにプロテスタントの倫理が資本主義の精神とみごとに照応し、結合するウェーバー的事例を、ここにみてとることは容易だろう。  ベルトゥが理念としてその書にしるしたとおなじことを、ジャピィは、みずからの事業のために現実化しようとしていたわけである。  やがてこうした考えかたがなにより効率性の追求として、時間測定法とノルマの設定という、より洗練された管理方式のもとに工場に適用されたのが、アメリカの、とくにフォード自動車工場の例で有名な、テーラー・システムであることは、すでに少なからぬ人びとによって指摘されてきたとおりである。それは約一世紀後、つぎの世紀転換期のころのことであった。  工場での各工程の作業時間をストップウォッチで計測し、必要な余裕率を考慮したうえで、標準的な作業時間と作業=生産量との関係を、工程ごとにはじきだす。その作業量が、労働者にたいしては、一種のノルマとして課されることになる。ノルマ以上を達成すればボーナス、以下ならば罰則を課して、作業効率の向上をはかろうという管理方式は、フランスでは、第一次大戦直前の一九一二年に、ルノー自動車工場で部分的に採用されはじめた。  しかし、このテーラー・システムの導入にせよ、あるいはもっとそれ以前の問題である機械そのものの導入にせよ、このほぼ一世紀のあいだの機械の時代の進展は、決して順調に合理化・近代化の実現という具合にはいかなかった。前節では、いわば「伝統的」な職人の時間の側からそれをかいまみたのであったが、十九世紀末から今世紀へかけての転換期においても、労働と時間の秩序をめぐる緊張は、依然として高いところにとどまっている。歴史は、一筋縄ではいかないからこそおもしろい。 [#改ページ]   8 労働現場の状況とさまざまな時間の秩序  機械の時代の到来をしめす目印としてとりあげられるのが、一般に産業革命であることは、すでに周知のことがらに属するだろう。しかしながら、フランス全体として、いったい産業革命はいつおこったのであるか、ということになると、ことはかならずしも簡単明瞭にはいかないのである。  第三共和政風の政治史では、時代錯誤的でもあるボナパルティスムの復活ということで、まったく評判のかんばしくなかったナポレオン三世の第二帝政時代は、この数十年のあらたな歴史研究の展開によって、むしろ再評価されてきた。もちろん再評価されたのは皇帝支配という事実についてではなく、この時代がフランス経済の発展期としての、そしてまたそれにともなった行政機構の整備確立期としての性格を明白に示している、という点についてである。フランスにおける産業革命は、教科書的にいえば、七月王政下に本格的になりはじめ、第二帝政のもとで大幅な展開がみられた、ということになる。  だが、これはあくまで、あらすじとでもいうべきものであって、もっと仔細に立ちいって観察してみるならば、どうも革命というような急激な変化を示す用語を使うことには、いささかためらいをおぼえるのである。もちろん、経済や社会の側面において生じた「革命」といわれる現象は、政治革命におけるように、朝起きてみたら政治体制や支配者がかわっていた、などといった短時間の出来事ではありえないこと、これは当然である。  しかし、それを承知したうえでなお、なのである。革命と表現して何かわかった気になってすべてを整理してしまうのではなくて、むしろ長きにわたる産業化の過程が、さまざまな抵抗だのあつれきだのをともないながらあって、ある時期には、ある分野でその過程が急加速し、またある時期には、むしろ鈍化したり逆行したりすらする、ととらえた方が、どうもぴったりするように思えてならない。少なくともフランスの場合には、その方が実情にちかかろうということもあるが、同時にまた、そのようにとらえた方が、今日においては問題発見的な歴史の見かたでありうる、と思われるからである。  たしかに、北部に開設された大規模な紡績・織布工場や、あるいは製鉄工場などでは、十九世紀のなかばや、さらにはもっとまえから、すでに変化は急激で、かつ根本的でもあった。けれどもそれは、十九世紀のフランス経済・社会の一面であって、もうひとつの極には、小さな作業場における生産の頑強な存続、という一面がまぎれもなく存在していた。  一九〇六年の国勢調査では、おおむね、つぎのような数字がだされている。生産部門に雇われた諸種の労働者は、総計約三六八万人であったが、かれらが働いている企業規模をみると、一−十名を雇っている企業が全体の三二・二%、十−百名を雇っている企業が二七・六%、そして百名以上の企業は四〇・二%であった。これを分野別にみてみると、大規模集中化の率が高いのは、製鉄・金属精錬、鉱山、繊維、製紙・ゴム、陶器・ガラス、化学などで、これにたいして、建築や皮革などでは十名から百名の中規模なもの、食品や被服製造などでは十名以下の小規模なものが、圧倒的に優勢であった。  食品製造のなかには、街角のパン屋さんなどもふくまれて勘定されており、じつはこの調査では、工場労働者と職人的労働者とが混在したまま、生産部門に従事する労働者として計算の対象になっていたわけである。そのような処理の発想じたいが、この時期になっても根強かった家内工業的小規模経営の広範な存在という状況を、映しだしたものだったといえよう。  そのような小規模経営のなかには、かつてアンシァン・レジーム下から十九世紀はじめにかけて農村にひろく存在した家内手工業の、残存形態とみなすことのできるケースもあった。たとえば繊維産業の場合には、一方で大工場への集中化がはっきり進行すると同時に、家内工業的小規模経営もまた大幅に存続していた。  だが、そのような残存形態というべきものばかりが問題だったわけではない。被服製造の場合、ミシンが大量生産されて、しかも割賦販売されるようになるにともない、専業・副業のいずれにせよ、家庭内での縫製の請負いや、あるいは小規模な作業場の開設が、あちこちに広まったことが知られている。あるいは、あらたな電機産業などの展開は、リヨン地域でみられたように下請け的な家内工業や小工場の誕生をうながしたのであった。  反対側の極であった大工場の場合には、この一九〇六年の調査は、一八九工場が千人以上の労働者をかかえ、そのトータルの労働者数は四十三万六千と報告している。その半数以上は、繊維、鉱山、製鉄・金属精錬でしめられており、分野別の不均等性、そしてまた地域による不均等性のおおきさは、フランスを、いわばモザイク模様にしていたのである。  地下鉄メトロの開通でにぎわった一九〇〇年のパリ万博にはっきりと示されたように、すでに機械の時代であるということはもちろんのこと、それも科学技術の前進によるいっそうの合理化へ、そして電気の時代へとむかいつつあることが、時代の先端的な流れであった。しかし二十世紀はじめの時点では、フランス全体として工場のエネルギー源は、七対三で蒸気機関の方が電力よりも大勢をしめていた。まだ工場内は、むんむんする熱気と喧騒とが支配していることが、はるかに一般的だったのである。  人的資本というのはイヤな表現だが、医師たちがその損耗に警告を発しつづけて久しかった。十九世紀の前半からくりかえし行なわれた「社会問題」の調査において、重要なポイントのひとつをなしていたのは、労働と生活の場の環境衛生的観点からみた劣悪な条件であった。世紀末になってやっと、工場内の衛生や環境に投資することは、最終的には生産性をあげることにつながるのだ、という主張もあらわれてくる。しかしフランスの経営者たちは、直接生産にむけられるのではない投資には、まったく消極的であった。テーラー・システムの導入については前節でもすこしふれたが、それがテーラー自身の意図した企業経営全体の科学的管理化という方向ではなしに、ノルマ設定という形式で生産現場にのみ導入されたことは、フランスの経営者たちのこうした態度を、如実に反映したものである。  経営者によっては、工場内にトイレを設置することすら、労働者の手抜きと結びつけて警戒したほどだったのである。昼食をとる場所もとくにおかれていたわけではなく、工場の一角で休息をとることが通常であった。そこで、やっと一八九四年の政令で、工場内へのトイレの設置や、飲み水、洗面台のついた更衣室をおくこと、工場内での休憩をやめること、身体にぴったりした作業服の着用(機械への巻きこまれの防止)、などが勧告されたのだが、それはまさに実情の劣悪さを物語るものにほかならない。  徹底的な合理化には、労使ともども、それぞれの立場から消極的であった。それはたしかに一面において、「伝統的」技術や熟練的職能の保持につながっていたのであるが、同時に他方の現実としては、多くの工場で、こうした劣悪な労働条件を課するものでもあった。  それでは小規模経営の方がましであったかといえば、そう単純にはいかない。時代の趨勢としては、平均的な均質的商品を大量生産するシステムが、決定的に主導権をとりつつあった。そのような趨勢をまえにして、まず、手仕事は二極分解への傾向をあきらかにしたとみなされている。  ひとつは、熟練職人による高級品生産という、手作りの稀少性を価値の源泉とする方向である。大量生産システムによる複製品が氾濫すればするほど、複製ではないという手仕事の価値がホンモノとしていっそう強調されることにはなるのだが、熟練を要する以上、どの分野でも誰にでもできるというものではない。  より一般には、手仕事はむしろ質の落ちる作業を意味するようになり、家内工場や小規模経営の工場は、よりいっそう過酷な労働条件に耐えることで生き残るしかない、というきびしい現実の方が支配的だったのである。  世紀末からベル・エポックにかけて、機械時代の時間の秩序、量として正確に表示される時計の時間にもとづく秩序が、すでに支配の位置にあったことは、たしかであった。しかし、労働現場の状況が以上のようなものだったということは、その秩序が人びとに自明なものとして受けとめられるには、まだいささかの間がある、ということを意味している。さらに、あいかわらずフランスの人口の過半数をしめていた農村住民の生活様式を考えれば、さまざまな時間の秩序の併存と相互の緊張関係は、依然として存続していたとみることができるのである。 [#改ページ]   9 テーラー・システムと科学的管理  十九世紀という時代は、政治的にも社会的にも、あるいは経済のありかたという点においても、たいへん振幅のおおきい激動を経験した時代であった。それはまた、人びとの時間とのかかわりという点からしてもそうであり、いわば過渡期的性格をきわめて強く示している、といってよい。そのぶんだけ社会的緊張の度合は、高いところに位置していたのである。  しかし、同時にまた十九世紀という時代は、全体として、科学と進歩への強い信頼を特徴としていた点でも、きわだっている。そういう意味で楽観的な一面をも色濃く保持していたことは、現在からふりかえってみれば否定しがたく、その信頼たるや、むしろ「進歩信仰」とか「科学崇拝」にちかかった、といって過言ではないほどであった。  たしかに世紀末にもなると、このようなオプティミストなものごとのとらえかたにたいする拒否や疑念が、一部に激しい流れを形成しはじめる。デカダンスといわれる風俗現象は、あきらかにこうした考えかたに背をむけるものであったし、ニヒリストやアナキストたちは、もっと激しい行動にでて明確に現状拒否を表明するだろう。  だが、社会の一部にみられた東洋趣味や、あるいは一種の神秘主義への傾斜は、せいぜい時代の趨勢にたいする反撥、あるいは心理的代償作用とでもいうべきもの、ようするにアダ花にちかかった。つまり全体的にみるならば、「おまえたちの主張は科学的ではない」ということが決定的な攻撃でありえ、科学的だということがあたかもオールマイティの切り札ででもあるかのような意味をもっていたことは、否定しえない。それは体制派、反体制派の立場のいかんを問わず、であった。  一般に科学と技術の進歩は、ほとんど無条件に良いものとみなされ、社会の改善や富の増大と直接的に結びつけられてとらえられた。産業や労働にも科学が適用されうること、適用すべきこと、そして、進歩の実現は産業の科学的組織化をはたすことによってもたらされる、とする考えが生みだされることになる。  すでに多少言及してきたように、そのような考えかたが十全に展開され、実際に工場への適用がこころみられたのが、今世紀初頭のアメリカ合衆国にはじまったテーラー・システムであった。しかし、フランスへのそのシステムの導入は、かならずしもなめらかに順調に進んだわけではない。その一因は、労働者の抵抗ということにもあったが、他面、それ以上に、急激な成長よりもむしろ安定的な成長を欲した保守的立場が、政界や経営サイドで主流をしめていたこと、そして産業構造じたいが、手工業的ないしは職人的な性格を色濃くとどめた小規模経営の広範な存在を特色としたものだったこと、などが要因をなしていた。  フランスでもっともはやくテーラー・システムに反応を示した自動車産業ですら、その例外ではない。現在でこそ、日本でみられるようなロボット導入の最先端設備をほこる自動車産業も、そのはじまりは、当然のことながら、まったくもって熟練職人たちの世界であった。一八九八年、ルノーが本格的に出発したとき、職人労働者わずかに六人、製造した車は年間六台にすぎなかった。急成長したルノー工場は、一九一三年には四千人ちかくの労働者をかかえ、年間四千五百台ちかくの車を製造するまでになる。ルノーをふくめて、一九一四年には百五十五社が自動車製造にたずさわっていたが、しかしそのうち、ほんとうに工場といえる設備をもっていたのは、四十八にすぎなかった。その筆頭にあったのが、パリ郊外ビヤンクールに工場をかまえたルノーだったのである。  エメ・ムーテ女史の研究によれば、アメリカ合衆国でテーラーが科学的管理法への想を練っていたのとほぼ同時期、一八八〇年代末には、フランスでもまた、アンリ・ファヨールによって、ドゥカズヴィルの炭坑経営のために科学的管理法が模索されはじめていた。自然科学とおなじような厳密な法則性をもった行動科学を樹立し、適用することはできないものか、と。しかしまだこの時点では、それは孤立した探究にすぎなかった。  テーラーの考えがフランスへ導入されるにあたってまず主役をはたしたのは、経営者ではなく、むしろ技術専門家たちである。なかでも、ル=シャトリエの演じた役割はおおきい。一八五〇年、技術者の一族に生まれ、理工科学校を入学から卒業まで首席でとおしたアンリ・ル=シャトリエは、みずからもパリの鉱山専門学院の高名な教授となった。  無機化学と鉱物学のスペシャリストとして、一八九八年からコレージュ・ド・フランスの教授にもなっていたル=シャトリエは、一九〇〇年、ベル・エポックへのテープを切ったパリ万博において、テーラーが開発した高速金属裁断機をみて、いたく感心する。それが交流のきっかけとなった。テーラー自身も、はじめから経営管理の専門家だったわけではなく、機械技術の専門家として、まず純技術的な側面で名声を確立した人であった。その名声のゆえに、一九〇六年、かれはアメリカ機械技術者協会の会長に選出される。そしてそののち、かねてより考えてきた経営管理に関する提言を、より本格的に宣伝しはじめるのである。  はじめはまず技術者どうしの交流としてはじまった手紙のやりとりを通じて、ル=シャトリエはすぐに、科学的管理についてのテーラーの主張に完全に魅せられることになった。技術専門家として鉱山開発についての提言をいくつも行ない、学者としてもエリートであったル=シャトリエは、経営者のあいだにも少なからぬ知己をえていた。おりをみてはテーラーの考えをフランスへ普及することにはげんだル=シャトリエは、一九一二年にはテーラーの理論書『科学的経営管理の諸原則』を、フランス語に翻訳する。  他方、ルノー工場へテーラー・システムを導入すべく、いちはやく活発に動いたのも、また技術者であった。ド・ランという人物がそれである。ル=シャトリエが技術系の学者だったとすれば、かれは現場の技師であった。導入に消極的だった経営者ルイ・ルノーを説きふせて、一九一一年訪米させ、フォードの工場を見学、フォードやテーラーとも会談させることに成功する。  一九一二年末には、ルノー工場への導入が決定され、おなじくリヨンの自動車産業ベルリエの工場でも導入されることになった。翌一九一三年には、タイヤで有名なミシュランもテーラーと接触、クレルモン工場の再編にのりだしはじめ、一九一四年にはフランスではじめて、技術コンサルタント・グループがパリに形成される。  こうしたフランスへの導入は、テーラー自身ル=シャトリエへの手紙のなかで嘆いたように、経営管理全体のシステム化をめざす性格のものではなかった。生産現場における標準作業時間とそれに対応したノルマの設定という、もっぱら時間測定法による労働の組織化、それによる生産強化をねらったものであったことは、すでにのべたとおりである。  それは、ムーテ女史の表現を借用すれば、テーラー・システムそのものというより、むしろそのカリカチュアにちかいものではあった。だが、そのように限定されたものであったとはいえ、経営管理の合理化への試行が、この段階ではすでに技術者レヴェルにおいてではなく、経営者のイニシアティヴによって明確に出現しはじめていることには、注目しておいてよい。第一次大戦以前においては、そのような企業は、まだ両の手でかぞえても指があまるほどのものでしかなかったとはいえ、である。こうした経営姿勢の変化ともいえる動きの前提になったのは、一九一〇年以後の景気の回復と生産上昇のなかで、量産体制を確実にしてゆくことで国内外の競争に勝たねばならない、という経済状況の変化であった。やがて一九二五年に、シトロエンがエッフェル塔をイリュミネーションで飾った広告はあまりに有名であるが、大衆へむけての企業広告やイメージ形成ということが、量産された商品の市場を開拓することとのからみで問題となりはじめたことも、またベル・エポックのひとつの特色だったのである。  生産現場への時間測定法とノルマの導入は、職制の性格にも変化をもたらす。かつては、労働者をサボリやブラツキから引きもどすための腕っぷしが重視され、それゆえに労働者たちからは目の上のタンコブとして忌み嫌われてもいた職制は、時計を片手に作業を監督し、内容をチェックする「有能」さを要求されるようになる。テーラーの考えでは、その位置には、システム全体を理解したうえで、各ポイントで作業内容を指導することができる技術者が、中間管理者として配置されるべきであった。実際それは、やがて両大戦間期には部分的に現実のものとなりはじめるであろう。  さしあたり労働強化を意味したシステム導入が、労働者のあいだに強い抵抗の動きをひきおこしたことは、十分理解できる。ルノー工場の労働者たちは、導入が決められた一九一二年末から一三年一月にかけ、大規模なストを行なった。それまで組合運動にはまったく消極的だったルノー工場労働者たちのストは、経営者ばかりではなく、労働運動の活動家たちをもおどろかせるものであった。結局、全体としてみれば、四百三十六名の解雇者を出した労働者側の敗北、というかたちでストは終結し、二月から、システム導入が実現する。しかし時間測定者の位置には、労働者が選んだ代表がつくことになった。だから労働者側からすれば、それはストによる一定の成果だったともいえるであろう。だが同時にまたそれは、「機械の時間」を労働者たちが受けいれ、みずから担うことをも意味していたのである。 [#改ページ]   10 時計の存在がごく身近になるとき  以上みてきたように、十九世紀のなかばまでは、工場を経営し管理するものにとっての大問題は、労働者が勝手に欠勤せずにきちんと定刻にやってくること、そして勝手に持ち場をはなれないように監視すること、がまず第一であった。労働者たちは、しばしば職人的性格を色濃く保持していたし、多くの地方都市の工場では、労働者たちはまだなかば農民としての経済活動を継続していたケースが、ひんぱんにみられたからである。  しかし二十世紀への転換期には、もう一歩先へでて、時間をいかにむだなく組織化するか、ということが、現実の問題として広範にうきあがってきている。それは、時間との関係でたてられた経済的な生産効率の問題であり、時間の節約、すなわち時間をかせぐことは、文字どおりお金をかせぐことになる。かつて中世末に、宗教心と結びつきながらあらわれた「時は金なり」というとらえかたは、ここにおいてまったく世俗的なレヴェルでもって、十全にその威力を発揮しだしているのである。  フランスでテーラー・システムが導入されはじめたのは、一九一〇年代のことであったわけだが、そのはじめのうちは、すべての労働者に標準化された労働を課すための条件である、機械や道具類の標準化がともなわれていたかといえば、そうではなかった。それに、適切なアドヴァイスができる技術者としての職制も、形成されてはいなかった。だから熟練した腕をもつ労働者がデモンストレーターとしてやってみせ、その作業と時間との関係が、モデルとして下敷きにされたわけである。  ところでこの状況は、第一次大戦をへたのち、おおきく変わってゆくこととなる。効率化の追求は、第一次大戦下の軍事関連産業において拍車をかけられたが、そこでは「時は金なり」であるばかりではなく、いわば「武器」にもなったのである。大戦後の一九一九年、第一号車を生産したシトロエン自動車の経営者であり、みずからも技術者であったアンドレ・シトロエンは、大戦中、フランス陸軍との契約のもとで、砲弾を高い効率において大量生産することで、戦後自動車業界にうってでる資本をたくわえ、また生産方式をもみがいたことは、よく知られている。社会生活においておおきなインパクトを与えることになる腕時計が、実用化へむけて開発・改良されるにあたっても、ドイツ陸軍によるその採用が、少なからぬ役割をはたしたと考えられている。工業化以後の戦争において、大規模な軍事展開を迅速かつ有効に実行しようとすれば、広い範囲でそれぞれの部隊の動きが時間的に同調されていることが要請される。そのためには統一的で正確な時刻を表示し、しかも機動的行動に対応できる時計の存在が不可欠であった。懐中時計ではなく、腕時計がクローズアップされる。  第一次大戦をへて、両大戦間期になると、自動車製造のような先端産業では、機械そのものの作動が時間的なコントロールを内蔵した、標準化された機械作業がひろく現実のものとされるにいたる。いわゆるアセンブリー・ラインの導入によるライン生産である。この、原材料から完成まで分業化された流れ作業の工程で、商品を大量生産してゆく方式は、生産に要する時間も経済コストも大幅にひきさげることを可能にし、個別的な差異という不確定要素が介入する余地がないよう時間と労働を均一化するシステムであった。それは労働力の削減を可能にしたばかりではなく、労働の組織化に根本的変化をうながしたという点で、きわめて重要な出来事だったといえる。  ある一定のリズムで流れ作業の各段階が進行してゆくとき、人間労働は、その機械のリズムに決定的に従属させられることになる。そう、あのチャップリンが、するどく風刺をこめて描いた名作『モダン・タイムス』の世界にほかならない。ライン生産が確立するとき、もはや時間測定などという方法は必要とされなくなる。すでに時間は、機械の作動そのもののなかに、それとしては目にみえない形でインプットされているからである。  このようなライン生産は、フォーディズムとよばれた。当時の先端産業であり、花形産業でもあった自動車製造業をリードしたフォード社が、他に先がけて一九一三年からデトロイト工場で採用しはじめていたからである。  しかし実のところ、自動車よりもっとまえにライン生産を実現したのが、まさに時間をつかさどる機械をつくる時計産業であった。かつて十八世紀末にフランスで、いまだ職人たちの協業という性格においてではあれ、ジャピィがこころみた生産方式が、十九世紀末には機械化されてアメリカ合衆国で実現への道を歩みだしていた。フォード自身も、まだ自動車製造にのりだす以前の若いころ、ひととき時計製造に関係し、一連の工程で安価な時計を大量生産することを夢みたことがあったという、いささかできすぎたような話をジャック・アタリは引用している。  フランスでの、かつての時計生産についての正確な統計はないようであるが、ある研究によると、フランスの主要生産地であるブザンソンでは、一八二九年に六万個だったのが、一八六〇年には二十一万個をこえ、一八八〇年には五十万個に達していたといわれる。フランスはこの時期、スイスについで世界第二位の産出数をほこってはいたものの、アメリカやスイスのようなライン生産による大量生産への道をすすむうえでは、まったく後方に位置していた。ということは、フランス産の時計はかなり高価なものであり続けていた、ということである。  世紀末から生産現場において、「機械の時間」にもとづいた労働の組織化がはっきりとすすみだしたとき、労働者たちの対応には、適応と反撥の両側面がみとめられる。この時期まで家内工業的、ないし職人的な仕事のスタイルが存続してきていた産業ほど、抵抗の力は強かった。織布、皮革、ガラスなどの産業がそれにあたる。  労働運動や組合のリーダーたちは、あらたな工場をしばしば徒刑地になぞらえてバーニュとよび、告発した。現在でも日常会話で勤め先をボワット、つまり「箱」とよぶことがあるが、これも、もとはといえば、この時代に機械や道具の用語とからまって生じたよびかたであり、そこには、機械の部品と化したかのような労働にたいする嫌悪が、表明されていたのである。  さまざまな抵抗の動きは、一方で、アルコールにおぼれてゆくという消極的な形式をとることもあった。労働者の飲酒は、すでに十九世紀のなかばには、医者や衛生学者によって問題化されていたのだが、世紀末にはアルコール中毒という社会問題として、クローズアップされることになる。他方、より積極的な場合には、前節でもふれたルノー工場の場合のように、ストライキとか、あるいはサボタージュという形式において表現された。世紀末から今世紀初頭は、労働運動が行動的少数派として、ゼネストによる社会革命をかかげて奮闘した時代でもあったのである。  現実には、ルノー工場のストの事例が示したように、工場のリズムへの実質的な適応が、余儀なくされたところであった。労働運動は、八時間労働の実現を最重要課題としてかかげ、八時間の労働、八時間の休息、そして八時間の自由あるいは家族生活、という「三つの八」trois huits を合言葉にしている。それは、いかにその実現が理想ではなく闘争の一段階にすぎないといわれようとも、量的な「機械の時間」が支配することへの承認をも意味していた。もっともそうはいっても、ストやデモが激しく弾圧され、しばしば死者をもたらしたこの時代であったから、八時間労働の要求は、きわめて激越な社会闘争のテーマたりえたのであることも、注意しておかねばならない。  ところで、世紀末から二十世紀はじめのパリの情景をみごとに写真にして残してくれたひとに、アジェ Atget(ほんとうはアトジェというのが正しいらしいが、日本ではふつうアジェとよまれてきた)がいる。かれが写した労働者家庭の部屋には、目覚し時計がバッチリ写っている。じっさい大都市においては、時計はすでに客間(居間)から寝室や台所へと入りだしており、ふつうの人びとの家庭にもそなえられるようになってきていた。初聖体拝領や結婚を記念する贈り物に、時計が好んでえらばれるようになりはじめていたし、学業の修了記念に懐中時計が贈られることもあった。そして生産現場におけるテーラー・システムやフォーディズムの展開とほぼ並行して、おおむねすべての家庭に時計が広まってゆき、さらに一九二〇年代から三〇年代にかけて腕時計が普及することによって、多くの人が時計を文字どおり身につけて歩くことになる。時計はもはや、貴重品ではなくなり、権力や地位の目にみえるシンボルでもなくなる。  時計が、もっぱら、標準化された時刻の計測をこととする便利な日用品と化したことは、社会生活内への「機械の時間」の浸透を意味している。あらたな時間の規律が、工場や学校や監獄などといった特定の場のみではなく、社会的に成立してくる。そして時計をもち、その時間に従うことは、社会のなかにみずからがきちんと組みこまれており、はみだし者ではないことを、シンボライズするものとなる。それは、社会生活をおくるうちに、あたかも自然に、自明のもののごとく、規律を内在的に担うようにしてゆくような仕組みが成立してくることにほかならず、より穏やかではあるがより巧妙な規律化社会へむかう条件が、ととのえられることでもあった。 [#改ページ]   11 社会的時間の加速化  十九世紀の生産の場における時間と労働をめぐる変化とは、ひとことでいってしまえば、この時期以降おしとどめがたく進行してゆく「機械の時間」の進展であり、社会的な時間の加速化という現実である。いうまでもなくこの現実は、産業資本主義の展開と対応したものであり、経済的合理性が何をおいても第一におしだされてゆく過程とみあっている。  近代のはじめこのかた、機会あるごとに姿をあらわしていた生産労働の称揚は、ここにきてきわまることになる。いまではかなりあたりまえとみなされている時間給の発想も、このようなコンテクストのなかで徐々に主流化してゆくのである。人びとが直接労働にはたずさわらないフリーな時間も、生産労働との関係において位置づけられることになる。いわく、疲労の回復、生産力としての力能の回復、というわけである。そしてそのための場としての家庭なるものが、道徳化の回路としての意味あいとあいまって重視されたのも、十九世紀が示したひとつの特徴であった。この過程はまた、生産労働力としての成年男子の価値化をともなった。その裏面として、相対的に生産力としての力能が低いとみなされた女・子ども・老人のマイナー化が現象することになる。このような過程の生成と進行は、現代社会にいたるまでの道のりを視野においたとき、さまざまな問題性をはらんだものとして、さらにいっそう精密にとらえておかねばならない、と思う。  ところで、ここまで何度かしつこくふれてきたように、この過程はスンナリと一筋縄ですすんだのではない。十九世紀にあっても、広範な農村部においては、時間は依然として「機械の時間」であるよりも、はるかに自然のリズムに対応していた。第㈼部で検討するように、その仕事は時間単位の労働ではなく、太陽の動きと結びついていとなまれる。日の出と日の入りによって画される一日にしても、季節の変化と農事暦によって画され、教会の典礼暦と民俗的な祭礼の暦とがリズムをあたえる一年にしても、同様である。  北部の農村には、多数の賃金労働者をやとって大規模な多角経営にのりだす農業経営者も、すでに世紀の前半から姿をあらわしていた。それはたしかである。穀物ばかりではなく、精糖設備をもそなえたうえで砂糖大根の生産を行なったり、酒類や飼料、肥料の商品生産をも並行的に組織したり、という具合に。それは、もはや産業としての農業といった方が適切であろうような資本主義的経営であった。  だから、あまり見かたを固定してしまうと、逆の一面化におちいってアナクロニズムになる危険があるのだが、しかし一般には、農村における時間は、線形的な、そして無機的な量に還元されうるものではなく、円環的な、それぞれに質をになった時間であった、ととらえたほうがふさわしい。  各時間は、それぞれ固有の顔つきをもったものであり、歴史の知覚もまた、何年何月といった点としての時間によって位置を示されるものであるよりか、村とか家族とかに生起した出来事との関係において位置測定され、一定の時期をこえればすべて「かつて」とか「むかし」と表現されてかまわなかったのである。どだい、点とその集合である量としての時間を測定するような正確さが、ふつうの農民たちの社会生活のうえで要請されたわけではなかったからである。  一九一三年にシャルル・ペギーは書いている。「世の中はイエス・キリストの生誕以来、ここ三十年ほどのあいだに変化したほど、変化したことはなかった。……ボース平野の農場は、(普仏)戦争後ですら、かつてのガロ=ロマン期の農場のほうにかぎりなくちかかった。いや、その習俗や、位置や、地味で堅実なこと、おもおもしさ、構造にいたるまでも……むしろガロ=ロマン期の農場そのものであった」と。  歴史の研究をなりわいとしているものからみれば、これはあまりに乱暴なくくりかただ、といわざるをえないけれども、そのようにいわせることができるような十九世紀の農村の状況と、そして世紀末から明確に加速化しだした変化の現象をおさえておかねばならないことは、たしかである。  だが社会的時間の生きられかたを、一定の地域的範囲のなかで実証的につめてあきらかにしてゆくことは、なかなか難題である。まえにも一度登場ねがったギ・チュイリエによるニヴェルネ地方の研究は、その点で先駆的な仕事として注目に値する。  かれによれば、一八六〇年代に入るまで、この地方の町でも村でも、懐中時計をもっているのは、ごく一部の人びと、ブルジョワだの役人だのにかぎられていた。六〇年代以降すこしずつ広まりはじめるのだが、それでももっとも安い時計は、銀製で四十フラン、金だと九十フランもし、高いものになると六百フランをこえていた。さらに広まるためには、価格の低いものが簡便に手にしうる、という条件が必要となるが、それは一八七〇年代から世紀末にかけて、パリからの通信販売が新聞広告を媒体として入りはじめることによって、部分的に満たされだすことになる。それと同時に時計屋の数も増加しだし、ヌヴェール市の場合、一八九一年に十四、一九一三年には二十一の店舗がかぞえられた。それと同時期に、小さな町にも時計屋が店をだしはじめたのだが、いわば時計屋があることが、時代に遅れをとっていないという一種の町の誇りにされたのである。かつてから時計職人は技術者でもあり、ふつうの人びとからみれば一種「摩訶不思議」な力能のもちぬしであったが、同時にまたほまれ高い職業とみなされたわけである。またこの時期の時計屋は、同時に宝石屋でもあり、かつ金貸しの役をはたすこともまれではなかった。  懐中時計がある程度一般に広まりだすとともに、ブランドものが幅をきかせだすというのも興味ぶかい。もはや時計をもっていることじたいが地位のシンボルとはならない状態になってくると、今度はブランドが差異をうみだす源泉としてあらたなシンボルになる、ということだ。このニヴェルネ地方では、一八九〇年代からスイス製のオメガがすでにその役を演ずることになるが、しかし第一次大戦にいたるまで全体としては、そしてとくに農村部では、懐中時計はめずらしいものであり、もっているとすれば父から子へと受けつがれ、またもっていることじたいが、社会的地位のシンボルとしての性格を、あいかわらず担っていたということである。目覚し時計や振り子時計も、二十世紀にはいって徐々に広まってゆくにすぎない。  公共用の大時計が町村役場や学校、駅舎、教会などにふえてくるのも、一八七〇年代以降であった。これもまた値がはったのであり、一八七五年で三千から四千フランし、時計職人に委託する維持経費も、年間二百二十ないし三百フランしたというから、小さな町や村では、そなえつける費用の捻出も馬鹿にならなかったのである。  第三共和政のこの時代は、教権主義や初等教育をめぐって、教会と共和政治とが、するどく対立していた時代であったから、町役場や学校が時計をかかげるとき、それは教会の鐘や時計への対抗的意味をもつことになった。役場の時計は駅の時刻にあわせることによって、共和政治の中心としてのパリの時間を採用し、旧来の地域的な時間に依拠する教会との対立を暗示したのである。それはかつて中世末において、都市が世俗の鐘や時計を教会のそれと対峙させたのと、時代的、政治的コンテクストはちがいこそすれ、相同の現象であった。  この地方で大工場に時計が設置されることも、一八八〇年代末からはじまるが、より一般の工場、作業場にまで入ってくるのは、一九〇〇年をこえてからとみなされている。 [#挿絵(img/fig5.jpg、横×縦)]  他方、一八七三年にヌヴェール市では、時計塔の大時計をガス灯で照明して、夜でも時刻が明示されるようにすることを決定した。そこで毎日、委託されたガス会社の職員が塔の上にのぼり、あかりをともすのが、あたらしい行事となる。おなじヌヴェール市では、八〇年代に入ると、部分的に電気照明が導入されだすことになるが、それに先だって普及したガス照明や石油ランプによる人工照明は、日常的な生活の様相に変化をうながすとともに、人びとの時間とのかかわりにもすくなからぬ影響をあたえたのであった。とくに農村部に、人工的な照明の可能性が広まっていったことが、農民たちの精神的側面にとっておおきな意味をもったことは、農民作家エミール・ギヨマンの友人だったダニエル・アレヴィの『中央山塊の農民たちをたずねて』にも的確に描かれている。暗い夜がもっていたシンボリカルなイメージがはるかに後退してゆき、同時に行動のありかたにも変化が生じてくる。  ニヴェルネ地方でも、鉄道時刻や学校教育、さらにはスポーツ競技などが、時間の正確さやスピードの感覚を社会的に広め、さらに電信電話の導入やラジオの普及がそれを決定的にしてゆくことは、他の地方とかわりない。やがて一九三〇年代には、腕時計が普及しだすことによって時計の時間が支配の位置をゆるぎなくしだし、家電製品が出はじめることによって時間の節約やスピードの感覚は、家庭生活の内部にまで入りだすことになってゆくのである。 [#改ページ]   12 さまざまな時間の生きかたへ  第㈵部でみてきたことは、われわれが時間といえばすぐに時計に目をやり、それを自明のこととして生活しているそのことじたいが、じつはそれほど歴史的な過去にさかのぼれるわけではない、ということであった。歴史という時間の縦軸を、横にねかせて空間にとってみれば、現在でもこの地球上には、時計の時間とは異なる時間を生きている人びとの社会が、けっしてすくなくないことを、人類学の調査などがおしえてくれる。  しかし時間の歴史、なかんずく人びとがどのように時間を知覚しつつ生きていたのかということを歴史のなかにたずねることは、思いのほか簡単ではない。  中世都市における機械仕掛けの時計の出現とか、正確なクロノメーターの発明、個人用時計の普及、あるいは国際標準時の採用といった、技術史とか政策決定にかかわることがらは、多少なりともその時代的限定、ないしは年代の画定を行なうことが、比較的容易である。しかし、ものができたり政策がきめられても、それが現実にどのように使われ、運用されていたかを理解することは、はるかにむずかしい。  つまり物理的条件の場合には、かなりの程度歴史的変遷を厳密にあとづけることが可能であるが、生活のなかでの時間をめぐる人びとの慣習的行動や意識ということになると、その変化の筋道をたどることは、どうしても大づかみにならざるをえない。しかし大づかみになるからといって、だから歴史的にみてより価値が低いとかあてにならない、ということにはならない。この点に注意しておきたい。  そもそも日常生活における行動や意識のありかたは、政策の決定とか革命による政体の変化などの出来事、あるいは技術の発明や鉄道の開通などといった出来事ともちがって、厳密な年代画定ができるような性質のものではない。はるかに長い時間の幅をとって考えてみないと、とらえようのないものなのである。時間の生きられかたやその意識についても、また同様なのだ。歴史をとらえる場合に厳密に年代画定できなければ歴史ではないとでもいうかのように考えることじたいが、じつは十九世紀的な時代の刻印をうけたものだ、ということも知っておいてよい。  歴史の研究は、いまやっとそのような時間の呪縛から少しずつ身をときはなちつつあるところだ。いわゆる「アナール派」に代表されるようなフランスでの歴史研究の動きは、いろいろな問題をはらみながらも、その先陣を切ってきたといえるだろう。  もちろん、年代や日付をきちんと確かめることが必要ないなどといっているのではない。必要ないどころか、政治的決断や戦争とか革命の推移にとっては、一刻一秒がその社会にとってたいへん大きな意味をもつことは、おおいにありえたし、いまもこれからもありうる。あるいはもっと身近なところで、犯罪事件でのアリバイだとか、男と女の関係のあやにとって、一刻一秒がそれぞれの当事者の命運にかかわることもまた考えられるだろう。  ようは、そうした一刻一秒が重みをもつ場とは異なる場がさまざまに存在していることであって、しかつめらしい表現をすれば、社会的時間の多層性ということである。ということは、歴史における時間もまた、単一の層においてとらえることはできない、ということにほかならない。  社会生活のなかでの時間の様式と、そして人びとがそれをどのように意識していたか、ということに話をもどすとすれば、発明だの政策決定だのの出来事によって区分があたえられてはいたものの、全体としてみればその変化は大きなうねりのようにして何世紀もかかって進行してきた、ということになる。しかもその変化の時間的推移は、社会内部においてさまざまなヴァリエーションをもっている。社会階層によって異なるであろうし、大都市と小さな町や農村とでも、あるいは政治の中心であるパリとの距離の遠い近いによっても、いろいろに差異をおびていたのである。  その変化を要約的にひとことでいってしまえば、自然のリズムを基礎にもついわば慣習的な時間から、時分秒で計算され、機能的に規則だてられる量としての時間へ、ということになろう。  それをもう少しこまかに構制ファクターにわけて考えてみれば、こうなる。第一に、時間の計測手段や技術における変化。機械仕掛けの時計の製造や、経済システム内でのその産業としての成立、技術的精度の前進といったことが、ここにかかわっている。  第二に、人びとが日々の生活のなかで形成する時間への態度と意識における変化。時間にかんする「価値」や「常識」がいかに形成され、また変わるのか、ということである。かつてキリスト教における神と不可分に結合していた時間は、やがて貨幣や資本といった「物神」と不可分に結びつけられて意識されることになる。中世史家ル=ゴフが比喩的に「教会の時間」から「商人の時間」へとよんだ変化は、都市での公共用大時計の出現といった第一のファクターとも関係しているわけだが、同時にそればかりではなく、人びとにとっての時間の質がどう変わるのか、ということに関係している。  第三に、慣習的な時間から機能的な時間へという変化にともなわれる時間の拘束性の変化。  ファクターのとらえかたは、もう少しつっこんで考えればちがったようになるかとも思うのだが、いまのところはこんなふうにたててみた。それらのファクターが、地域によっても、都市や農村といった社会的空間の性質によっても、また社会階層によっても、さまざまな差異をもってからみあいながら全体の変化をうながす、ということである。  そして時間を秩序だてることは、すなわち経済・社会生活の進行を組織だてることでもあるから、その社会を支配すること、つまり政治と密接に関係してくるのである。  産業社会になったとて、社会的な時間はけっして単一の層でおおいつくされてしまうわけではないのだが、時計に示される機能的な量的時間が圧倒的に支配的な力を発揮する、ということになった。それはまた速さ、すなわちスピードが問題とされるようになることでもあった。  経済性とのからみでいっても、空間を移動するという点からいっても、スピードをあげること、時間を節約し能率をあげることがたえず課題としてかかげられ、現代社会のコンプレックスとなり、そのなかで人びとは時間に追いまくられることになる。  時計をもつことがもはやステイタス・シンボルではなくなり、時計の時間にしたがっていることが社会的統合のしるしになるとき、今度はスピードを手にいれることが地位のシンボルとなる。ちょうど鉄道網の発展が時計の時間の社会的浸透におおきな役割をはたしたと同様、今度は世紀末にはじまった自動車の製造が、スピードによる社会的区別に貢献することになる。  スピードの感覚はまた、家電製品を通じて家事の世界にまで入りこんでくる。そして一九六〇年代の経済成長期以降、自家用車やオートバイをもち、またさまざまな家電製品をそなえた生活をおくることがもはや地位のシンボルではありえないほど一般化していったとき、スピードはすでに現代社会全体をとらえた。  たしかに平均労働時間は、かつてにくらべるとはるかに減少し、そのぶん自由に処分できる時間がふえたかにみえる。にもかかわらずその余暇といわれる時間は、時間の消費に神経をすりへらしている人びとの意識を動かすより、むしろ時間の消費にとりつかれてしまっているありかたを強めているかにみえる。現象的には余暇の時間を自由に好きに使っているようでいながら、同時に現代産業社会において時間の意識は、かつてないほど画一的に構制されてしまっているのではないだろうか。私自身もふくめて、現代産業社会に生きているどれほど多くの大人たちが、子どもにむかって「はやくしなさい」とせきたてる言葉を多く吐いていることだろうか。それもほとんど無自覚に。  テクノロジーがますます展開していくことはまちがいなく、かつてのような慣習的な、緊縛力のゆるい時間に社会をひきもどすこともありえないだろう。われわれが将来、多様な時間をそれぞれ組みたてることができるとすれば、それはテクノロジーを媒介とした先に構想する以外にはないと思われる。しかしその場合に、あくまで時間の生きかたにおける差異を最大限に保証できるような世界を構想しなければならないだろう。さしあたりそれがユートピアといわれようとも、である。  私が歴史のなかの時間についてこだわってきたのは、最後にしるしたようなことを考えながら、現在という時代の歴史的位置を時間という観点から照らしだす準備をしてみたい、と思ったからなのであった。自分たちの生きている時間っていったいどうなっているんだろうか、という思いを少しでも多くの人たちが多くの場で反省的に考えてみることが、出発点になるのではないだろうか。 [#改ページ]   ㈼ 習俗世界のイマジネーション [#改ページ] [#2段階大きい文字] 1 若者たちの五月  風かおる五月という表現が常套句として日本にあるように、フランスでは「うるわしき月、五月」といういいかたが、一種のきまり文句としてある。もっとも、ドイツの詩人ハイネが「美しき五月」とうたっているように、むろん五月のこのイメージはフランスばかりのものではなく、長い冬をやりすごしたのち、もはやあともどりしえない春の到来を歓迎する心もちと、それをあらわす慣行は、ヨーロッパの各地にみられるものである。  第㈼部では、産業化以前の農村社会におもに焦点をあてて、はたして人びとはどのようなリズムのなかで生活をおくっていたのだろうか、ということをみてみたい。ただしヨーロッパ全体をみわたすことは私の手にあまるので、フランスの場合を素材として歳時記ふうに一年の流れを追いつつながめてみることにする。なかでも各時期に配置されていた祭礼、あるいは儀礼に注目しながら検討してみることになるが、そこに示されているのはかつての習俗世界がもっていたゆたかなイマジネーションであり、現実の生活の領域と聖なる領域とがかさなるようにして生きられていたその宗教性の独特のありかたとなるだろう。しかしまた、物質的にはきわめてきびしい条件下にあったこともたしかであり、かつての農村社会を単純にノスタルジーをもってながめるわけにいかないことは、あらかじめいっておかなければならない。  屋外活動がいよいよ本格化する五月から、その習俗世界、ないしは民俗慣行の世界へのわれわれの旅をはじめることにしよう。  おなじフランスとはいっても、北と南とでは、気象条件ひとつとってもずいぶんと違いがあるのは当然なのだが、それでも全体として緯度の高いヨーロッパの中心に位置するフランスでは、冬は長く重く人びとの生活のうえにおしかぶさっている感が強い。北であればあるほど、いっそうのことだ。パリの緯度が北海道よりさらに北、サハリンとかさなる位置にあるとわかれば、ヨーロッパの緯度の高さのイメージがある程度つかめると思う。かつてのフランスにおいて、とくに「伝統的」な農村の民俗慣行の世界にリズムをあたえていた多くの祭礼のうち、クリスマスから復活祭にかけてのもの、つまり冬から春にかけて行なわれるものに、多かれ少なかれ春をよびまねき、自然のよみがえりへの期待をあらわす意味がこめられていることは、この冬のイメージとかさねあわせるとき、よりあざやかに共感される。  復活祭をすぎて五月ともなれば、いよいよ木々の緑が輝く陽光に踊り、花々はいっせいに野にいろどりをあたえてくれる、という、いささか陳腐にもおもわれるきまりきった表現が、しかしまったくピッタリと実感されるのが現実なのである。  かつてのフランス、といったいいかたは、ずいぶんとあいまいのそしりをまぬがれないのだが、とりあえずいま、中世以来、産業化のはじまりまでとしておきたい。もちろん産業化のはじまる時期はたいへん大きな地域差をともなっており、それじたい十九世紀のなかばから、第二次大戦後の高度成長期にいたるまでの幅をもちうるだろうし、まさか中世以来ずっと農村の民俗慣行の世界が不変だったわけもない。近代国家や、都市文化や、あるいは聖職者・教会であったりもする、より包摂的な外部世界とのせめぎあいのなかで、あるときには速いリズムで、そしておおよそはゆっくりとしたリズムで変容しながら、産業化による決定的な転機にいたるまで、民俗慣行の世界は独自のきわめて長期的なリズムを持続していたのであった。  一見すると、歴史の闇とともに古いかとみなされがちな習俗が、よく検討してみると、意外に歴史的には新しくおこったことがらであることもある。ことに物質文明といわれるような、モノにかかわる習俗の場合にそうであり、たとえばずっとむかしからあったようにおもわれがちな民俗衣裳が、十八世紀や十九世紀に、貴族だの都市だのの流行を一部吸収するかたちで形成された、というようなことは、すでに今世紀前半にアルベール・ドーザなどによっても指摘されている。  じつのところ最近の研究における通説では、農村文明とか農民文化の絶頂期とは、十九世紀のなかばとされるのである。というのも、農業生産性の向上や技術革新、商品市場の拡大などをうけて、衣食住をめぐる農村社会の状態が全般に改良されてくるのは、十九世紀からとみてよい。そしてまた、そのような物質的改善と対応するように、乳幼児死亡率も低下してくる。ようするに、生存条件にゆとりが生じてくる、ということである。  制度的にみても、フランス革命をへて、封建的束縛や身分的階層制から農民たちは解放された。もちろん農村内部の社会階層上の差は一般的であったし、地主—小作関係による経済的束縛がつよく存続していたところも少なくなかったから、あまりに調和的なイメージをいだくことは幻想になるだろう。しかし、良好になった経済的・社会的条件のもとで、農村独自の生活文化は絶頂にたっしたといわれるわけである。しかし頂点だということは、すでに下り坂がみえていることでもあった。そうして十九世紀末から多くの民俗学者や研究家が、失われてゆく習俗を書きとどめるべくフォークロアの研究にいそしむことになる。  民俗慣行の世界のなかで五月は、とくに多くの祭礼がつぎつぎとひきつづく時期のひとつにかぞえられ、多くの慣行でいろどられた季節であった。そこで、フランス民俗学の発展にもっとも貢献した学者のひとりであるヴァン=ジェネップは、現在でも汲めども尽きぬかのようなデータの宝庫である大著『現代フランス民俗学提要』のなかで、この時期を五月のサイクルと名づけ、三百ページあまりをその克明な叙述にあてている。  祭礼は大別すると、日付が固定したものと動くものとに二分される。  日付の決まった祭礼としては、五月一日の祭り、三日の聖十字架発見の祝日、そして第一日曜日がそれにあたる。移動祭日にあたるのが、復活祭の四十日後にやってくるキリスト昇天の大祝日アサンシオンと、それに先だつ三日間のロガシオン、そして復活祭の五十日後、七回目の日曜日にあたる聖霊降臨祭である。復活祭が移動祭日だから、これらの祭礼も日が動くことになる。  これらのうち、五月三日と、復活祭から起算される移動祭日は、いずれもはっきりとキリスト教にもとづいているわけであるが、そこには同時に民間信仰的な要素がわかちがたく結びついている。  たとえば五月三日の祭礼をみてみよう。この祭礼は、キリスト教ヨーロッパの出発点をあたえたローマ皇帝コンスタンティヌス大帝の母、聖ヘレナが、その晩年にエルサレムとベツレヘムに巡礼したおり、イエスが処刑された十字架を発見したとされる故事にちなんでいる。人類学者ニコル・ベルモンによれば、いまでは完全に姿を消してしまったこの祭礼は、十五世紀以来このかた二十世紀前半にいたるまでの記述資料に登場しているという。この日には、ハシバミなどの木の枝を二本あわせて十字架をつくり、それを教会で祝福してもらうのが、ならわしであった。そのあと小さな木の十字架は、畠のなかに立てられ、その年の作物の実りゆたかなことが祈られた。とりわけ、嵐や天候不順にみまわれることがありませんように、という切なる願いがそこにはこめられていた。あるいは十字架は泉におかれ、生活にとって貴重な水が一年のあいだ確保されますように、と祈られたのである。そこには、五月の自然のよみがえりに託した収穫のゆたかさを祈る現世的な豊饒儀礼と、キリスト教暦における宗教儀礼とが、民俗慣行の世界のなかで結びつけられ、行なわれていたさまが、はっきりとみてとれる。  おなじことは、ロガシオンについてもいえる。この三日間の祭礼は、ドーフィネ地方のヴィエンヌの司教だった聖マメールによって、四六九年に公的に制定され、六世紀のはじめころまでに徐々にフランス、というよりガリア全域にひろまっていったといわれる。三日のあいだ毎日、村の司祭を先頭に、つぎつぎと畠を行列してまわり、畠のなかで農民たちは、土地の豊饒と収穫のよからんことを神に祈願するのである。第㈵部に登場ねがったルイ=セバスチァン・メルシエは、大都市パリでのロガシオンの変質をなげきながら、村でのありかたは「たいへん感動的な祭礼」だとしてほめたたえている。それは十八世紀末のことであった。五月にはまだまだ天候は不安定で、晩霜がおりるようなところもある。しかも一回の天候異変が作物を壊滅させることも少なくなかった。天候が順調でありますように、という人びとの願いには、生存をかけた切実なひびきがあったのである。  フランスはキリスト教の国だ、あるいは国であった、といえば、なにをいまさらということになるだろう。たしかに仏教でもなくイスラム教でもなく……という点ではそのとおりなのだが、しかし、神学者や教会の唱導したキリスト教から少し目を転じて、ふつうの人びとが生きるなかで心にいだいていたキリスト教の世界とはどんなものだったのだろうか、ということを考えてみると、フランスはキリスト教の国だ、といってわかったような顔をしているわけにもいかなくなってしまう。五月の祭礼のいくつかは、そうした生活のなかでの民衆の宗教性ということを考えるのに、ゆたかなイメージをもたらしてくれる。  ところで豊饒儀礼としての意味は、作物や家畜のゆたかさについてばかりではなかった。若い男と若い女の結びつき、つまり将来の結婚と子づくりとを象徴するものでもあった。人と人とが結びついて形づくる共同体の豊饒を祈る儀礼的意味をももっていたのである。五穀豊穣の豊穣儀礼という字ではなく、あえて、豊饒という字をつかったのは、そのためである。  そうした含意がひじょうにはっきりとしている五月一日の「五月の木」の慣行は、もともとまったくキリスト教的ならざる民俗的なものであったが、かのヴァン=ジェネップは、五月の祭礼がもっているこうした人間の豊饒を願う性格を、なんともあからさまに、「性的要素がきわめて明瞭だ」と表現している。  この慣行は、イギリスのメイ・ポール(五月柱)とかドイツのマイバウムと同様の春の祭典、ないしは夏迎えの行事としての意味をもっていたわけだが、そうした自然の生の再活性化と、人間の生命を産みだす男女の結びつきとが、ダブルイメージされるのである。  さて、くだんの「五月の木」のやりかたには、おおまかにいって二種類あった。五月一日の前夜半、あるいは夜明けまえ、村の未婚の若い男たちが近くの森へと繰りだし、と、そこまでは同様なのだが、ひとつのやりかたは、若葉をつけてまっすぐにのびた一本の若木を切りだし、それを村の広場におしたて、やってきた春と、村の娘たちへのささげものにするというやりかたであった。いわば集合的表象としての「五月の木」であり、その木じたいが「五月 mai」とよばれた。そして夜があければ、その木のまわりには男女の踊りの輪がつくられる。もうひとつは、若者たちはひとりひとり自分たちの枝を切りとり、それらを若い娘のいる家の戸口のうえや窓辺におくという、個別のやりかたである。ときによっては、屋根のうえにまでよじ登って、煙突にくくりつけたりもしたという。  さあ具体的にどういう手法で、となると、地方によって特徴はさまざまであった。その家にいる娘の数と枝の数があうように配慮されたり、あるいは娘たちの年齢に応じて木や枝の高さが按配されたりもした地方があるというように、その儀礼的な手法は、ずいぶんと記号化された約束事にみちていたことがわかる。ささげられる木や枝の種類によって、娘たちにさまざまな評点があたえられることもあったから、娘とその家族にとっては心おだやかならざるものがあった場合もあろうし、じっさいこれが原因のイザコザの例も記録に残されているのである。記号としての木の種類とその意味内容の対応は、イバラが娘の性格への非難を意味するといったような、いたるところで一致のみられる場合もあれば、おなじ桜の枝でも、あるところでは美徳が、ある地方では尻軽なことが示されるといったふうに、記号の意味が地方によってまったく異なる場合もあった。このようにして、地域ごとに記号化された約束事にみちていたということは、つまり、この慣行がかつての時代の若者たちによって重視されていたことを意味するだろう。  じっさいこの慣行は、村の若者たちによる一種のなわばり宣言としてのものでもあったのだ。というのは、かつての農村社会においては一般に、結婚の相手をみつける範囲はまず同村の内部か、せいぜい近隣にあって日頃からつきあいのある町村に限定されていて、人類学でいうところのアンドガミー、つまり同属婚の傾向がはっきりしていた。しかも適齢期の若い男女の数は、さほど多くはなかった。だから村の若い男女は、やがて一緒になるべきものどうしとしての確認を、よそ者をまじえずに自分たちで取りかわそう、というわけなのである。ひそかに思い定めた娘のいる若者たちは、このときとばかり、その娘にとびきりみごとな枝をささげる、という手筈となる。娘が胴着につかうリボンをその枝に結べば、OKのサイン、そうでなければアウト、という地方もあった。  親族関係のネットワークを基礎にもった農村共同体が存続し、繁栄するには、しかるべき秩序のもとで若い男女が結婚し、つぎつぎと世代が再生産されてゆかねばならない。人間社会にとって性にまつわることがらは、死とおなじく、放置すれば秩序に混乱をもたらすかもしれない危険をはらむ要素でもあったがゆえに、習俗世界においてもさまざまなコントロールが伝承的にほどこされていた。そして、そうした性的な規範が守られているかどうかを見守る役割は、それぞれの共同体の未婚の若者たちの手にゆだねられていることがふつうであった。  若者たちのグループは、「若者組」とか「若者修道院」といった組織を形成する場合もあったし、そういう恒常的なものはつくらない場合もあったが、いずれにしても慣習的な規範に違反した者がでた場合には、シャリヴァリといわれた儀礼化された示威行動をとって制裁を加えたり、承認のための代価として金品などのいわば「通過税」を要求したりしたのである。こうした独特な社会的役割をもった若者たちが、五月の祭礼の主人公であった。「五月の木」のさいに、尻軽とみなされた娘にイバラの枝などで非難の記号が示されたということは、一種のシャリヴァリ的要素をもっていたのである。  おなじ五月一日か、あるいは第一日曜日には、村内で若者たちや娘たちが家々の戸口をたずね歩き、金品を贈ってもらい、それが、若い男女がめずらしく同席する宴のもとでにされたりしたのだが、この場合にも、そこに含まれている意味は「五月の木」の場合と同様であった。ところによっては若者のひとりが、葉っぱか苔などを全身にまとい、「緑男」になって家々を歩いた。そうして「五月」が擬人化して示されたのである。  あるいは娘たちのなかから「五月の女王」がえらばれた。十六世紀の資料にすでに記録がみられるプロヴァンス地方では、思春期にはいる直前の少女たちのなかから、もっとも美しいとされるものが「女王」にえらばれ、白いドレスに花のかんむりをつけた「女王」は椅子に腰かけて、ほかの娘たちにかしずかれることになる。しかしこのプロヴァンスやラングドックをのぞけば、ふつうは「女王」は娘たちとともに家々をたずねてまわったのである。  十八世紀はじめから、五月は聖処女マリアにささげられた月なのだというとらえかたがひろめられるにつれ、お金や品物を集めてまわることが聖処女の名においてなされたり、集められた資金で献納用のロウソクがもとめられたりもするようになる。しかしそういう要素がつけ加わったのちでも、基本的な性格は、自然のめぐみと男女のゆたかさを願う民俗慣行にあったことにかわりはない。  いまでもみられるスズラン祭りは、その起こりについてはよくわからない。イル=ド=フランス地方からひろまったとも、あるいは比較的新しい、十九世紀あたりからさかんになっていったものではないかとも、いろいろな推測はなされているが、それが幸せや好運をもたらすものとして五月一日に定着したのは、以上のような五月をめぐるさまざまな民俗慣行と対応するもの、と考えてよいであろう。 [#改ページ]   2 火祭りのほのおは燃える  季節がすすんで六月になると、冬まきの小麦はすでに色づき、ところによっては収穫の準備がすでにはじまる。この昼がもっとも長い時節を特徴づける祭礼は、六月二十四日のサン=ジャンの祭りであった。その祭礼の日の前夜には、かつてフランスの農村では、巨大なたき火というか、かがり火をたくのがならわしであった。見はらしのよい小高い丘にでものぼれば、おそらく夜の闇のなかに、点々とほむら[#「ほむら」に傍点]のあかりが認められたことでもあろう。  こうした火祭り的な行事は、なにもサン=ジャンの祭りだけのものではない。カルナヴァルのときに行なわれた地域もあり、火との結びつきでいえば、いまでは薪型のケーキに名残りをとどめているクリスマスの薪にまつわる慣行も、やはりそうしたものだ。民俗学の調査では、カルナヴァルの火祭りを盛大にやっていたところではサン=ジャンの方は行なわれず、サン=ジャンの方が盛大な場合には、カルナヴァルでは行なわれないことが一般的であったが(例外的には双方ともやったり、両方やらなかったりの地域もあった)、サン=ジャンの祭りの方が、なにより火祭りとしての性格を色こくもっていた。  このサン=ジャンとは、聖ヨハネのことなのだが、このヨハネは、イエスの十二使徒のひとりのヨハネではない。また、『ヨハネ黙示録』の作者として名の残るヨハネでもなく、ヨルダン川でイエス・キリストに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネのことである。その生誕を祝すお祭りの日が、六月二十四日というわけだ。その意味では、この祭りの日じたいはキリスト教にかなったものなのであるが、農村の民俗慣行のなかでは、およそキリスト教とは縁のない要素が、さまざまにそこに結びつけられている。  さて、火をたくには、しかも巨大な火をたくには、それ相当の準備がいる。ほかの祭りのときとおなじように、その準備の中心となって、薪だの木屑だのを確保する役を演じたのは、村の若者たちであった。けれどもまた、村の人たちがすべてそれに協力して、手持ちの燃えるものを供出することで、この祭りは共同体全体の協力と連帯をたしかめあう行事という色彩をおびる。  ブルターニュでの事例のように、火のそばに空の椅子をもうけて、死者たちのための席とすることもあった。死者たち、つまり先祖たちもまた魂として連帯の場に同席するというわけである。歴史のなかにおける人びとの死生観や信心の問題をするどくとりあげた故フィリップ・アリエスが、中世における人びとと死との関係を「飼いならされた死」、あるいは親和化された死というモデルで描いたとおなじように、かつての農民社会にあっても死は、おそろしい生の断絶としてよりも、共同体のなかに包みこまれるようにして位置していたととらえることができる。比喩的にいえば、死者の世界は生者の世界から排斥されることなく、両者の境域はかならずしも明確に線がひかれているわけではなかったのである。ただしその裏には、人びとは死ときわめてひんぱんに顔をつきあわせて生きざるをえないという、たいへんきびしい現実があったのであるが。  かつての社会における死の問題については、もっとあとでのべることにして、話を祭りにもどそう。たき火のやりかたは、自然条件や経済生活のありかたとも関係して、それぞれに地域的な特色をもっていた。柴や小枝を積みあげるのが常道だったが、南フランスのブドウ栽培地帯などではブドウの小枝であるし、ちかくに森があるところでは枯枝が集められる、といった具合。だいたいがグチャグチャに手あたり次第に積みあげる、という風だったらしく、ときには「なんともいわくいいがたいピラミッド」状の堆積物ができあがる。一二七ページの挿し絵のものは、おどろくほど形よく積まれているが、若者や子どもたちにとっては、準備からして一種のゲームの要素があったろう。  つくられる場所は一般に、祭りが共同体全体のものであることを象徴するかのように、村の中心をなす広場であったが、事例によっては、ちかくの丘の上につくられるようなこともあった。十八世紀から十九世紀にかけて、火事をおそれた当局が圧力をかけた結果として、村の外で行なうようになったところもあったようである。それに、地方によっては、集落形式をとらずに農園が散在しているところもあったわけで、その場合には必然的に場所は散らばる。たき火の数も、大きいのがひとつとか、あるいはいくつかつくられるなど、それぞれの村によっていろいろで、こうした細目における違いは、それぞれの村の生活のなかに伝承されてきた民俗慣行に、つねに付着しているありかたなのである。  積みあげられた柴や枝のまんなかには、柱か、まっすぐに伸びた木を、枝をはらってたててやる。この木柱も「五月の木」とおなじ豊饒のシンボルで、じっさいそのようによばれることもあった。あるいはピレネ山中の一角では、五月一日に用意されたものがとっておかれ、乾燥したところでもちいられるという、かなり用意周到なやりかたも報告されている。  点火のしかたにも、またさまざまな地域固有のやりかたが記録されていて、ひとしなみには語れない。だが、ひじょうに一般的にいえば、教会はなんとかこの祭りのキリスト教的な性格を確保しようとしたから、司祭がそれに立ち会ったり、点火するまえに教会から少年合唱隊をひきつれて村を一巡するなどというやりかたで、関与しようとしたケースが多くみとめられている。  火がともされれば、あとはその周りで村人たちの歌と踊りの輪がつくられる。これにも教会側は、いい顔をしなかった。たとえば十七世紀後半のある文書は、かくもけだかき聖人の歓びの日を悦楽の機会にしてはならない、と、なんともおかたい論陣をはっている。十七世紀というのは、プロテスタントの宗教改革の動きをうけてカトリック側が対抗宗教改革を展開し、そのなかで教会が、きわめて規範化のまなざしを強めた時代であった。たき火やそのまわりでの輪舞ばかりでなく、以下にみるようなサン=ジャンの祭礼につきものの慣行は、すべて迷信として告発の対象になった。それらの慣行は、すでに十六世紀の文書にもしるされていたものであったが、やがて十九世紀末から二十世紀はじめにかけて民俗学者たちが採集したデータにも、そっくりそのままあらわれるものにほかならない。ということは、迷信としてやめさせようとした規範化のこころみは、成功しなかったということである。  じっさい民俗学者たちが事例を集めた十九世紀後半にせよ二十世紀前半にせよ、巨大なたき火のつくられるところ、踊りはつきものだった。火が下火になると、若者たちはそのうえを跳びこす。失敗したり怖気をふるえば笑いの雨、ということにもなるが、ただたんに度胸くらべのゲームというわけではない。若いカップルが手をとりあって火を跳びこせば、それが将来の結婚を保証するというように、村の連帯の確認の場であった火祭りは、おなじく男女のむすびつきのよからんことを願う場でもあった。じっさい、きびしい生存条件のなかで、共同体の繁栄と永続とは、それにかかっていたからである。あるいはまたアルザス地方での例のように、「若者がより高く跳べば麦もまたより高く育つ」といわれ、作物の豊饒の祈願という意味もまたかさなっていた。  こうした日常生活と密着した、生そのものと結びついた祈りの気持ち、あるいは願かけ的な要素は、ほかにも豊富にみられる。たとえば、日本でもみられる習俗であるが、清めとしての火や煙に手足をかざして健康を祈る、というのがある。家族を主体にした農業経営では、なによりも身体の健康がその無事な運営と不可分だったからでもある。  あるいは、小麦やライ麦など、それぞれの土地の作物を数本、火にくべることによって、作物の生育と収穫の無事が祈られ、あるいは、たき火の燃えさしを家畜小屋においたり、家畜たちに煙のなかや灰のうえを歩かせ、家畜の無事と繁殖を祈る、といった具合である。また燃えさしや灰を木靴に集めて、それを畠にまくと蛇がでないとか、実りゆたかになるともいわれた。そしてなにより燃えさしは保存しておかれ、火事や雷よけのお守りとしてだいじにされた。習俗世界のイマジネーションにおいては、しばしば同類をもって同類を制するという発想が行なわれている。人間が火を制御した結果である燃えさしは、人間のコントロールがおよばない火事のおそろしい火や、あるいは天の火である雷から、人間を守ってくれる、というわけである。多くの地方では火祭りのあと、日の出までのあいだは薬草をつむのに絶好の機会、なんとなれば、聖人みずからが草木を祝福しにきているからだ、と伝えられていた。  こうして民俗慣行としての聖ヨハネ祭は、微妙に聖人と結びつきながら、内実としてはキリスト教とはおよそ関係のない象徴的なイマジネーションにもとづいて、ながいあいだうけつがれていたのであった。  民俗学者のかなりの人たちが、この火祭りを夏至の太陽祭と結びつけて解釈している。巨大なかがり火は、なにより太陽を象徴する、と。ただしヴァン=ジェネップは、ヨーロッパに夏至祭があったという起源的な根拠は薄弱で、どだい六月二十四日は夏至とは日付が違うではないか、と、この火祭りを夏至祭がキリスト教化されたものとする解釈を「絵空事」だとして手厳しい。ただ、ブルターニュなどの言い伝えには、この祭日の朝、地平線では三つの太陽が競い、そしていちばん強いものが勝って、一年の残りの日々を照らし、人びとにあたたかさをくれるのだ、とあるように、この祭礼と太陽を結びつける要素があきらかに存在している。けれどもヴァン=ジェネップによれば、その逆の事例もまたたくさんあって、ことは単純ならず、起源を示す証拠もない以上いまのところ正確な結論はないというのが、いちばん正しいのかもしれない。しかしドイツやスカンジナヴィアなどゲルマン世界での慣行や言い伝えなどをもあわせて推論してみれば、やはり火と太陽とを結びつける解釈はもっとも有力なものではあるだろう。日付のズレは、キリスト教化されたさいのズレであるかもしれず、また精密な天文学的観測を判断根拠にした必然性はないから、多少のズレは別に不思議ではないともいえるからだ。  フランスやヨーロッパばかりではなく、日本やそのほかの社会にもみられる民衆的想像力と火との結びつきは、人間にとってのなにか原初的な影をてらしだしているようにも思えて、なかなか気がかりなことがらである。  サン=ジャンの巨大な火は、日常的には火が貴重であり稀少でもあった状況のなかで、文字どおり祭礼の非日常性をうきたたせる。夜間の屋外といえば、月あかりや星のまたたきしかしらなかった時代に、周囲の闇と対照される巨大な火の光は、闇=悪と対置される光=生と希望をイメージさせる。光の共有こそが連帯の確認ではなかったろうか。習俗世界のイマジネーションのなかで、夜はなにより悪魔の、そして呪いが飛びかう時空であり、ふだんはおそれの対象であった。そしてキリスト教の宗教的象徴としてもそうであり、逆に光こそはイエスという救世主の存在、つまり生の希望を示すイメージなのである。旧約聖書の世界では、創造主としての神は万物に先がけて光をつくりたもうたのであったし、この世の闇をてらす光こそ「まことの光として世界をてらす」メシアの象徴なり、と、ヨハネ福音書はたたえるのである。 [#改ページ]   3 七月十四日の祝祭と革命の神話化  歳時記のようにして七月とフランスの歴史とを結びつけて考えると、ここはやはり七月十四日 le quatorze juillet の祝祭について、ということになろうか。  フランスのことにことさら関心をよせていなくても、日本ではしばしばパリ祭などと称されるこの日がバスティーユ襲撃の日にあたること、つまりフランス革命勃発をしるした事件を記念した祝日であることは、多くのかたが御承知のことだろう。けれども、いったいいつから、どのようなコンテクストのなかで、ほかではないこの日が「国民祭典」とされていったのか、については、あまり知られてはいない。習俗世界に焦点をあてているわれわれのここでの観点からすると、多少おもむきが変わったものとはなるが、すこし寄りみちをしてながめてみたいと思う。 「人権宣言」で有名なフランス革命は、ほぼ二世紀まえの出来事であるが、その革命の勃発をしるした事件の日である七月十四日を、毎年、国民祭典の日として祝うことが公的な制度として決められたのは、じつはほぼ一世紀ほどまえのことにすぎない。一八八〇年のことである。ときは第三共和政の初頭、やっと多数派を構成するにいたった共和派議員たちがイニシアティヴをとって、この日が制度的に祝祭の日とされたのであった。  プロイセンとの戦争に敗れたナポレオン三世の第二帝政が崩れおち、ひきつづいたパリ・コミューンがついえてのちからかぞえて、それはほぼ十年たらず。フランスの政情は、王政復古やボナパルティスムの危険をのがれたばかりで、共和体制がやっと地歩を固めたところだった。七月十四日を国民祭典の日にするということは、そうした政治的緊張のもとで、共和体制の勝利を象徴させるという役割をになったものだったのである。だから反共和派は、こぞってこれに反対した。  バスティーユ襲撃が政治犯救出のために行なわれた、という説は、じつはその反対派がつくりあげ、強調したものだったということも、知っておいてよいかもしれない。つまり、流血沙汰をおこしてまで救出しようとした革命派が牢獄に見出したのは、手形偽造者だの半狂人だのの幽閉者七名にすぎなかった、そんなツマラヌ出来事を、なんで国民祭典などにできようものか、というわけなのである。だがほんとうのところ、群衆がバスティーユにむかったのは、パリ防衛のための武器調達が目的だったことは、いまでは確認されたところとなっている。反対派の説は、いわば事件のマイナス「神話化」といえる。いっぽう、国王軍への対抗という側面があったとはいえ、このバスティーユ襲撃が圧政打倒を直接の目的としていたということも、またあたってはいない。これは、むしろあとから意味が付与されたのであり、革命派はプラスの「神話化」を行なったのである。  さて、第三共和政下に共和派の政治家たちが、この日を国民祭典と制定したのは、いまのべたように共和体制の勝利を象徴するためであったが、同時に、それはまた体制の強化のためでもあった。社会秩序の安定強化のために、祭りを政治サイドから組織だて、活用してゆこうというやりかたである。そのためには、民俗慣行における祭りのやりかたや形式が、部分的に採用される。たとえば前夜祭における、子どもたちを中心にしたちょうちん行列は、夜祭りのタイマツ行列と対応するし、自由の木の植樹にはあきらかに「五月の木」とのアナロジーが存在する。いまふうにいえば、さらにさまざまなイヴェントが組まれる。宴や踊りや花火、ペタンクやペロタなどといった伝統的な遊戯の競技会、闘鶏や、競馬ならぬ子牛の競走、あるいはちょっとした規模の町ならば旅芸人や道化師が見世物小屋をかける、といった具合。そうした祭りを積極的に手段として活用し、国家権力を中心とした国民の結集をつくってゆこうという意図である。  そうしたこころみは、すでにフランス革命下に革命のリーダーたちが行なった政治ともつながっている。リーダーたちは、教育の一環として国民祭典を積極的に組織化し、市民みずからがその祭りをになってゆくようにと、こころみたものだった。そして上からの祭礼の政治的組織化にあたって、革命のリーダーたちが重視した点は、形式においては伝来のスタイルを踏襲しつつ、そのなかにあらたな内容をつめこむことであり、そのさいにヴィジュアルな、あるいはスペクタクル的な要素、つまり目にみえる形でイメージをあたえることが重視されていた。七月十四日は、そのなかでもきわめつけのひとつではなかろうか。  バスティーユ襲撃を、人民による自由の獲得と市民的解放に直結させる一種の「神話化」は、ほとんどその直後から生ずる。一七九〇年には、はやくも七月十四日は、革命のシンボルとしての祭りにされた。その年、連盟祭とよばれた七月十四日の祝典では、国王以下、立憲王政派、共和派、各地からの軍隊、市民たちがパリのシャン=ド=マルスに集まり、あらたなフランスの一体性と、いわば呉越同舟の社会的協調とが、強くうちだされたのであった。じつは第三共和政の共和派政治家たちが強調したのも、一方でバスティーユ襲撃であるとともに、他方では、この連盟祭の七月十四日でもあった。労働者大衆にたいしては「第三身分の勝利の日」としての七月十四日、つまり民衆によるバスティーユ襲撃が強調され、より一般には連盟祭のイメージとしての社会的協調と、外敵をまえにした国民一致を説くための七月十四日とされたのである。  プロイセンとの戦争に敗れてアルザス・ロレーヌの両地方を失ったフランスでは、ドイツ帝国にたいする復讐のための準備という好戦的な雰囲気が、一八八〇年代から第一次世界大戦にかけての時代の政治をかなり濃くいろどっていた。それは王党派や右翼的な愛国主義者ばかりではなく、多くの共和派をもとらえていたのである。制度化された七月十四日の祝典の目玉が、軍隊の行進とされることは、こうした時代の脈絡と無関係ではない。  共和国は、フリジア帽をかぶったマリアンヌ、という女性のイメージと結びつけられ、それはまた母なる祖国というイメージともかさねられた。これも一七九二年に、それまでの国家シンボルだった国王にかわって、フリジア帽をかぶった自由の女神を共和国のシンボルにしたフランス革命の、遺産であった。二度のナポレオン帝政は、皇帝のシンボルである鷲のイメージをそれにおきかえ、あるいは並用した。復古王政は、ブルボン家のシンボル白百合を一時的に復活させた。そうしていわば革命直後から野にくだった女神は、「闘うマリアンヌ」として、共和派のアイドルとなっていった。したがってこの女性は、おだやかな平和的イメージであるよりも、はるかに戦闘的な姿をしめす。七月革命のバリケードの上を男たちの先頭にたつ、胸をはだけた自由の女神という、あの有名なドラクロワの絵が、それを例示してくれている。ただしイメージは虚構であるから、現実の社会生活においてそのような女性がプラスの価値をもってながめられていたわけではない。あくまでもアレゴリーとしての話である。 [#挿絵(img/fig6.jpg、横×縦)]  さて、そうして第三共和政の時代がはじまると、共和派が市政をにぎっていたいくつかの都市では、一八八〇年をまたずに、七月十四日に祝典を行なうところもすでにでていた。しかし共和派が主導権をにぎる以前の政府は、秩序を乱すおそれありとして、多くの県で依然としてこれを禁止したのである。  じっさい、フランス革命初期において広く民衆の参加のもとに行なわれた七月十四日の祭典は、ナポレオンが皇帝にのしあがるとともに、禁圧された。権力にむかってたちあがる民衆、というイメージが、皇帝の支配とそぐわないことは、だれの目にもあきらかというものだろう。ひきつづく復古王政が、やはり禁止しつづけたことも、あきらかであった。そうして七月十四日は、第二帝政をへて、第三共和政下に共和派が政治の主導権をにぎるまでは、もっぱら禁止された祝祭だったのである。しかし逆にこの禁圧は、革命や解放のシンボルとしての七月十四日、というイメージの強化に貢献した。禁止されることによって「神話化」はむしろ強まり、共和派にとっての共通財産となってゆくのである。第三共和政でついに地歩を固めた共和派は、このイメージを最大限に活用しえた、というわけだ。「マリアンヌ」の胸像が七月十四日の祝典に登場し、ときには役場や学校などにつねに置かれることで、共和国フランスの戦闘的イメージを鮮明に人びとに呈示する手段ともされることになる。  たしかにこの祭りは、政治的に組織化され、制度として設定されたものであった。そして制度化とは、つねに虚構化でもある。農民や都市住民の生活の実体のなかから生みだされ、あるいはそれと不可分に結びついてうけつがれていた習俗世界での祭りとはちがい、この祭りは「劇場国家」的な政治の手段としての象徴的性格を、その当初からつよく負荷として負わされていた。制度化された当初から、市町村当局や、パリについては政府からも補助金がだされ、しばしば酒屋だの食料品屋だのが商売気をからめて中軸ともなった実行委員会が、いろいろにイヴェントを準備した、という側面があったこともたしかであった。  けれども、前世紀末から今世紀はじめにかけての時期には、とくに都市の民衆街区において、人びとは自発的に祭りを構成することによって、活気をおびた独自の非日常的空間をつくりだしたことも、またたしかであった。それは、たった一日のかりそめの空間であった。しかし人びとはそのなかで、濃密な時間を生きたのでもある。街路をうめつくす満艦飾の三色旗、そしてしばしば映画にも描かれたような、街角ごとに繰りひろげられる踊りの輪は、ふだんの町の空間と、そのなかでの人びとの関係を、「まるで村のような」ものにした、と当時の資料には語られている。 [#改ページ]   4 ヴァカンスの季節、あれこれ  フランスの七月末から八月にかけては、ヴァカンスのシーズンとしてよく知られている。夏のヴァカンスは、むしむしとした酷暑の日本にこそ必要だというのが、年来の私の思いで、もしかしたら私が大学教師であるのは、大学には公然とした夏休みがあるからかもしれない、と思うくらいなのだが、与太はさておき、全体として高緯度にあるヨーロッパの中心部に位置するフランスとはいえ、それでもやはり、夏は暑い日が少なくない。  けれども、この長期間のヴァカンスも、ずっとむかしからフランスの人びとになじみのものだったわけではなく、一般の労働者・市民のあいだにまでひろまったのは、さほど古いことではない。フランス最大の労働団体である労働総同盟CGTは、一九二五年から、年十二日の有給休暇を最低限保証するよう要求していたが、年休としてのヴァカンスの制度的保証が実現したのは、一九三六年になってからのことであった。つまりそれは、ドイツでナチスが権力をにぎり、イタリアやスペインでファシズムが勢力をえた第二次大戦直前のヨーロッパで、一時期はかない希望の星としてかがやいた人民戦線が、後日にいたるまで残すことのできた数少ない遺産のひとつ、というわけである。この人民戦線のレオン・ブルム内閣のもとで制定された有給休暇は二週間であったが、第二次大戦後、一九五六年に三週間に、一九六九年に四週間に、と延長される。  もっと以前から、学校の長期休暇としての夏休みはあったし、ブルジョワや貴族などの羽振りのよい金持ちたちは、大都市パリの暑気を避けて一夏を田園地帯の館ですごす、という習慣もすでにあった。かつてアルセーヌ・リュパンの活躍する時代、つまりは十九世紀末から二十世紀にかけての世紀転換期前後、そうした金持ちたちが避暑にでかけて留守となったあとのパリの館をねらって、盗賊が出没したりもした。いうまでもなく、リュパンが実在したわけではないが、リュパンもどきは実在した。  こうして、かつてブルジョワのものだったヴァカンスが、人民戦線政府の社会政策のひとつとして、労働者はじめ給与生活者のものとされたのだった。制度として保証されて以後、七月のヴァカンスへの出発風景は、大都市、とくにパリの風物詩のひとこまとして、日本でもしばしば報道されてきたものだ。もっとも最近のような自動車の混雑と交通マヒは、風物詩というにはあまりに殺風景で味気ない。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手のゴダールの映画『ウィークエンド』に描かれた、週末の車の行列が思い出される。話は多少ずれるが、この車による交通マヒのことは日常のフランス語でブション bouchon とかアンブテイヤージュ embouteillage という。それぞれブドウ酒などの栓、ビン詰めのことを意味しており、日本でならさしずめ「スシ詰め」といったところである。いずれもブドウ酒のビンにひっかけられているところが、いかにもフランス的といえようか。  いまでは夏の混雑をさけて、春だの、ほかの時期に長期休暇をとるような動きもあって、ヴァカンスも多様化しつつあるともいえそうだが、そもそも七、八月の時期にヴァカンスがとれるということは、都市型の生活が主となり、社会生活における余暇つまりレジャーの位置が問題とされるような、そういう社会変化が前提としてなければならない。農業をなりわいとする生活にとっては、それが穀物の耕作であろうと牧畜であろうと、長期間、一族そろって家をあけることは考えがたい。  何回か繰りかえし書いてきたように、おなじフランスといっても、地域によってバラつきがあり、何を耕作しているかでもちがいがあるのは当然のことである。だが一般に農村の七月から八月にかけては、穀物の収穫という、それまでの努力の実りを現実に手にするための、重大な作業の月にあたっている。  春以来、というよりも前年の収穫以来、祭りなどのおりにふれて祈られてきた豊かな実りへの祈願が、この月でもって、そのひとまわりのサイクルを閉じる。もちろん収穫のあとには、脱穀がくる。この脱穀の作業は、機械が導入される以前においては、そうとうに時間のかかる仕事であったが、いずれにしてもこの収穫と脱穀の時期をさかいに、屋外での活動の時期は徐々にたそがれてゆくのである。  機械化が進行する以前における収穫の作業は、おおぜいの人びとが鎌をもちいて行なったものであった。鋸刃の小さな鎌から、いろいろに改良が加えられて大鎌がもちいられるにいたるまで、道具の変化があったとはいえ、手仕事が基本だったことに変わりはなかった。夏の暑い太陽のもとでの作業は、刈りとる役割も、束ねる役割も、いずれもきついものである。しかも、のんびりやっているわけにはいかない。一回の嵐が収穫を半減させ、あるいは全滅させることすらありうる以上、機を失してはならない。時代を十九世紀から前へとさかのぼればのぼるほど、自然条件との対応はきびしさを増す。このたいせつな作業をめぐる習俗は、かつての農村の情景に、さまざまないろどりをあたえていたものであった。  プロヴァンスがうんだ偉大な文学者フレデリック・ミストラルは、一九〇六年に発表した『回想』のなかで、当時ゆたかな農家にひろまりつつあった蒸気機関使用の収穫機械や脱穀機械について、「科学のにがい果実」として嫌悪の情をしるし、みずからの幼少時、つまり十九世紀なかば以前のことを回顧して、こんなふうに書いている。「小麦がなかば熟してあんず色になってくると、すぐに使いの者がアルルの町をたって近くの山あいの村から村をかけまわる」。つまり収穫期がもうすぐだぞ、と告げてまわるわけである。そうすると「すぐに山の連中は三家族ごとに隊をくみ、妻や娘とラバやロバをつれ、収穫の仕事につくために山からおりてきたものだ」。夫婦と息子、娘からなる収穫作業のための家族グループは、そこではソルクとよばれた。南フランスのアルルちかくでは収穫時期もはやく、サン=ジャンの祭りとちょうどかさなって、収穫はただでさえお祭りみたいだったものがよけいににぎやかだった。こうなつかしげに書きしるしている。  十九世紀ともなると、おもな穀物は圧倒的に小麦となるわけだが、じっさいその収穫には多くの男女が雇われた。つまり、日頃農場で働いているもの以外に、収穫のための労働者が雇われたのである。石工とか、大工や木靴造りとか、さまざまな職人たちも、このときばかりは収穫人夫にはやがわりし、あるいは隣接する地域から、あるいはミストラルが書いたように山岳地帯から、おおぜいの人たちが隊伍を組んで収穫地へと乗りこんでくる。それは、この季節特有のピトレスクな、風物詩というにふさわしい情景であった。  どこでもというわけではなかったが、男が刈りとり、それを束ねるのは女と子ども、そして束を荷馬車に積むのがまた男、という分業が、民俗学者たちによってかなり広範に指摘されている。かれらは毎年、きまった村と農場に雇われるのが常道で、去年はあっちに行ったから今年はこっちにしてみようか、などという気まぐれの入る余地はなかったようだ。そうしてなかには、収穫作業のベテランも出てくる。とくに刈りとったあとのワラを、屋根をふくのに使うような、つまりワラぶき屋根の家屋がある地方では、その刈りかたにも熟練を必要とし、そうなると、もうほとんどスペシャリストといってもよい存在だったりもしたという。  かれらは多くの場合、リーダー格の男の指揮のもとで働き、しばしばキャピテーヌなどと呼ばれたその男が、雇い主と、給金や作業の具合などについて協議する。まあ「大将」とでもいったところだろうか。おなじ広さでも、以前の嵐などで麦が倒れていたりすれば、刈り入れ代は高くつくのである。一日の労働は、夜明けから日の暮れるまで。と書いてしまえば、なんのこともなくみえるが、緯度の高いフランスの夏では、お日さまが空にある時間はじつに長いのだ。北欧の白夜ほどでなかったことが、フランスの収穫労働者たちには、せめてもの救いであった。いずれにしてもそこでは、日の出、日の入りで一日の時間をはかる「伝統的」な自然のリズムが支配していた。 [#挿絵(img/fig7.jpg、横×縦)]  もちろん一日中働きっぱなしではない。日が高くなって暑くなるまえにひと働き、ということで、明けがたの空が白みはじめるとすぐ作業にとりかかり、七時ごろにまずひと休みして、持参した食事をとる。そしてつぎは昼ころに、本格的な食事。これは雇い主である農家の主婦が用意して運ぶ。スープ、豚肉、野菜、チーズ、それに地酒のブドウ酒やシードルなどが、おおよそのところその中身であったが、料理のやりかたや形状は、それぞれ地方色をもったものであった。もっとも、かなりゆたかな食事内容が報告されているのは、十九世紀末から以降の民俗学者たちの調査においてであって、それがはたしてどこまでさかのぼれるか、ということになると、いささか留保をつけなければならないかもしれない。この昼御飯のあと小一時間休み、それから午後の長い作業がまた始まる。あとは四時ころの軽食と小休止をはさんで、日暮れまで仕事が続くのだから、これは楽ではない。  仕事はじめと終りには、いろいろな慣行がともなわれている。代表的な例だけあげておこう。ブルターニュ地方などでは仕事はじめに、最初に刈りとられた麦で十字架がつくられた。もちろん収穫作業の無事進行を祈るためである。あるいは作業中に、畠のなかに五月に据えられた木の十字架を見つけた者には、幸運があるともいわれる。  仕事がすべて終り、収穫を積んだ最後の荷馬車が農家にもどるとき、人びとは陽気な行列を組んで帰還した。荷馬車のうえには、あの「五月の木」とおなじ形の木が、しばしば据えられた。実際その木は、「収穫の五月 mai de moisson」と呼ばれたのである。この「凱旋行進」にも地域ごとのいろいろなやりかたがあり、最後に刈りとられた麦が、来たる年の収穫の祈りのためにとりおかれたり、あるいは教会に献納されたりしたのである。  そして最後に、収穫の無事すんだことを祝って、祝宴がはられる。このときばかりは、いささかの無礼講でもって、御馳走と酒とがふるまわれたのだった。まだ人びとの日常生活が飽食をしらなかった時と場において、それは、数少ないハレの食事の機会のひとつであった。すでに十六世紀にブリューゲルが描いたあの情景の雰囲気を、想いうかべればよい。 [#改ページ]   5 ブドウのとりいれ、守護聖、そして聖母マリア  一般に七月から八月にかけては穀物収穫の季節だったわけだが、作物の種類や、それぞれの地域とか毎年の気候条件に応じて、その時期が特定しがたいことはいうまでもなく、この点は九月の収穫についてもおなじことである。農事暦においては、この月から十月にかけてはブドウや亜麻や、あるいは栗や山ブドウなどの果実類の収穫期であり、すでに収穫された穀物については、その脱穀の時期にあたっている。また、山に放牧されていた牛や羊たちは、そろそろ村へと引きあげられることになる。つまるところは、屋外での活動の時期が終息へとむかいはじめ、やがてくる冬のための備えにとりかかる時期であり、かつまたそれは、翌年の収穫へむけての準備をはじめることでもあった。  秋分がすぎれば、秋の日がツルベ落としであることは、日本より以上にヨーロッパでははっきりしている。そこでたとえば、パリから南へ下ってオルレアンをすぎたさらに先、中央山塊にかかるあたりをベリー地方というが、そこでは、九月のノートル=ダムをすぎれば、つまり九月八日の聖母マリア生誕記念日をすぎれば、「夜の集いla veille」の季節に入ってゆくもの、とされていた。家族みなが暖炉のまわりに集まり、あるいは近隣のものたちがそれに加わり、共同で暖をとりながら手仕事をしたり、話に花をさかせる「夜の集い」は、かつての農村生活においては、重要なつきあいの場であり、いわばインフォーマルな社交の場だったのである。そこは、昔話や経験談のかたちで、伝承が現実のものとされてゆく場でもあった。また場合によっては、そこを宗教教育や社会教育の場とする農民家族もあったのである。フランス全域においてみられた「夜の集い」の慣習も、十九世紀なかばをほぼさかいにして、消滅ないしは変貌への道を急ぎだすことになる。 [#挿絵(img/fig8.jpg、横×縦)]  放牧に出していた牛などの家畜を農場に引きあげるにあたって、スイス・アルプスやドイツのバイエルン地方などでは、決まった日取りに祭礼的な行事として行なったようである。けれどもフランスでは、サヴォワのようなアルプスの山ふところの地方をのぞいて、そうした慣行は一般には存在しなかった。  この時期の農事暦のなかでは、やはりブドウの収穫がいちばんのトピックだろう。もちろん、いわずとしれたブドウ酒づくりのためのブドウである。そして、このブドウ、日本のように棚を組んで栽培されるものとちがい、ふつうの小さな木のように地面からつったって列をなしているから、その取り入れは、機械化以前の穀物収穫作業にまさるともおとらず、たいへんな仕事なのである。  収穫労働者たちが季節的移動をすることも、穀物の場合と同様であり、収穫の夜の御馳走も、やはりおなじであった。しかし意外なことではあるが、収穫作業そのものにまつわる儀礼的な慣行は、あまり認められなかったという。ただ、収穫をやり終えて最後に帰還するときには、その最後の荷車が飾りたてられ、騒々しい行列が組まれた。そしてしばしば、男と女が衣裳を替えっこしたりして、一種のファルス、つまり笑劇が演じられ、その騒ぎをききつけた住民たちも加わってワイワイ・ガヤガヤ・ドンチャン騒ぎ、などということもみられたという。ようするに穀物の場合とおなじく、収穫祭が祝われたのである。  ヴァン=ジェネップがあげていることで興味をひくのは、つぎの点だ。ブドウの栽培や収穫には、妻や子どもたちをふくめ、家族ぐるみ全員でとりかかるのがふつうで、妻は基本的に畑仕事にはタッチしないという慣習のあったところでも、ブドウについては仕事にかかわったという。その場合、飼いブタをつぶして塩漬け肉をつくるときや、マヨネーズをつくるときなど、ほかにもひろくみられたタブーなのだが、月経中の妻女はブドウ畠に入ってはならず、収穫のさいにも、ブドウ酒づくりの準備をするときにも、おなじタブーが存在した。このタブーを破ると、塩漬けの肉はわきかえり、畠のブドウはことごとく腐ってしまうであろう、というのである。こうしたとらえかたは都市の職人の世界でもあったようで、アルレット・ファルジュによれば、十八世紀において染色職人たちはおなじタブーをしきたりにしていた。染色液が腐敗してしまう、というわけである。血のケガレと、女のもつ魔力という両面が、このタブーにはおそらく関係している。  女のもつ魔力などと書けば、なにを失礼な、と現代女性からは一蹴されるだろうか。あるいはニヤッとされるだろうか。  じつのところフランスのいわゆる「伝統的」な社会においては、女は男とはまた違った独特な力をもっている、とみなされていた。近代医学や生物学による人体の仕組みの説明が、基本的に了解されてはいない社会では、女にのみある周期的な月経はたいへん不思議なものでもあり、天空の月の満ち欠けの周期と関係づけて説明されたりもした。十九世紀でも、ところによっては二十世紀になっても農民たちは、そのようなとらえかたや、またそうしたとらえかたと結びついた慣行を保持しつづけていたが、時代をさかのぼればまた「知識人」たちもおなじようなとらえかたをいだき、表明していたのである。  そして月経をもち子どもを産むことのできる女の力は、共同体の存続にとって不可欠な豊饒の力として良きものであるとともに、なにかよくわからぬおそろしさをもった力でもあった。両義的性格をもった力なのである。それはあたかも、呪いをかけることのできる者のみがまた呪いをとくことができる、といったとらえかたとも通じあっている。  出産したばかりの母親は、豊饒のよき力を発揮したのではあるが、他方おそらくは流された血のゆえにもけがれたものとみなされ、出産後一週間ないし数週間たって産後の祝別式を教会でうけるまでは、家の内外での社会的活動をしてはならない、というタブーがやはりあった。したがって出産後数日のうちに行なわれることがふつうだった赤ちゃんの洗礼式にも母親は参加せず、産婆さんや名付け親がかわって重要な役割を演じたのである。  こうしたたぐいのタブーにあらわされている人びとの心のありかたを、非科学的で根拠なし、といってしまえば身もふたもない。じつは出産直後の活動のタブーは、結果的には産後の母体保護という役割をはたしていたわけでもあり、根拠は近代科学のそれとはおよそ縁遠いものではあっても、じっさいには現実的効果を心身両側面でもっていたというケースは、民間医療的慣行においても案外あったのではないかと推察される。もちろん反面、きわめて有害なケースもあったわけではあるが。  月経のタブーも、そこで問題となっていることがらの処理がいずれもかなりデリケートな扱いをようする仕事であり、そうした注意の集中をたえずうながすという意味を客観的にはもっていたのかもしれない。それらは、無事に生きてゆくための「知恵」に属することがらであり、その理由づけに、ときには民間信仰的、ときにはキリスト教的でもあるような根拠が援用されていた、とみなすことができる。今日からみてそれをナンセンスといってみたところで、はじまらない。月経のタブーといい、子どもを産んだ直後の産褥のタブーといい、日本の民俗学が豊富に事例を提供してくれているものと、きわめて似かよっていることに気づかざるをえない。文化的土壌からすると、そうとうに異なるはずの日本とフランスの農村の民俗慣行の世界に、しばしばこうした類似の現象がみてとれることは、今後もうすこしつっこんでデータを集めながら、考えてみたい課題である。  さて、ほかの作物の場合もそうだが、今年のブドウの収穫はよいだろうかどうだろうかと、はやく知りたいと思うのは人情というものだろう。そうしてフランスのほぼ全域でいわれたのは、彗星のみえる年は、アルコール度も高いよい酒ができるブドウがとれる、という言い伝えであった。そこで、le vin de la comete つまり彗星のブドウ酒という表現が、最良のブドウ酒をさす独特の言葉になり、それはそうたやすくあるというものではないから、ついには「これはまるで彗星のブドウ酒のごとくだC'est comme le vin de la comete.」という成句が、「こりゃあ、めったにないことだ!」という意になったという。これはウソのようなホントの話である。  だが、そう簡単に彗星があらわれてくれるわけもなく、さりとて予見ばかりにたよるわけにも、もちろんいかない。そこで、収穫のよからんことを祈る、ある種の豊饒儀礼が行なわれることになる。これもまた、なかばキリスト教の色彩をもち、なかばマジカルな、いわば呪術信仰的な要素からなる、そういう慣行である。  たとえばこうだ。五月の祭礼のときにつくられる木の小さな十字架を、ブドウ畠にうえてやる。あるいは、最初に熟した実を、村の守護聖人に、ということは、つまり村の教会に献納して、無事の完熟と収穫を祈る、などである。さらにブドウ栽培農民たちは、それぞれの地域ごとに、自分たちの守護聖人をもっていた。ちょうど、鍛冶屋さんの聖エロワとか、大工さんの聖ジョゼフとか、それぞれの職人たちがそれぞれに守護聖人をもっていたように、である。ブドウ栽培農民たちが、いったいいつごろから守護聖をあがめるようになったのか、それぞれの地域で、なぜその聖人が守護聖とされていたのか、という点については、よくわかってはいない。ただ個別の事例としては、たとえばラングドックのヴィヴァレ地方では、十九世紀のなかばになって、ブドウ栽培農民の守護聖人である聖ヴァンサンへの信心が強まった、といったような事例はいくつもあがっている。  この聖ヴァンサン様は、かなり多くのところで、ブドウ栽培農民たちの守護聖としてあがめられていたのであるが、はたしてそれが、フランス語でブドウ酒をあらわす言葉ヴァンと、ヴァンサンという聖人の名前の発音上の近親性に由来するものであるか、という点については、よくわからないというのが正確なところのようだ。ただ、一種のこういうカケコトバ的な発音の類似性とか連想性が、その聖人にまつわる伝承や故事来歴とならんで、信心の根拠をなしていたことは、よくあったのである。  連想ゲームのようで、今日からみるとかなりユーモラスなものもあるのだが、そのにない手たち自身にとってみれば、ユーモラスどころか、ときによってはまことに深刻きわまりないケースだってあったわけである。たとえば病気がなんとか無事治りますようにと祈られた治癒聖人信仰などは、その端的な例をなすだろう。聖クレールが眼病を治して目をクレールに、つまりきれいにしてくださる、というごときがその一例となる。  このような守護聖人や治癒聖人たちは、じつに数多く存在していた。それは、収穫についてにせよ、病気や事故についてにせよ、まずなにより生きつづけてゆくことそのものがかなりきびしいという、厳然とした現実と対応したものであった。かつて生と死の境域、此岸と彼岸の境域は、現代社会におけるように明確なものではなかった。人びとは、超自然的な存在がたえず、地上の日常的な生活に働きかけているのだ、とみなしていた。民衆にあってはその超自然的存在は、キリスト教の神や悪魔のみならず、星辰の動きでもあり、かつまた呪いや彷徨する魂などでもあった。  プロテスタントばかりではなくカトリック教会も、そのような民衆の信心をより純度の高いキリスト教にしようと、中世このかたしばしばこころみている。そのもっとも典型的なあらわれが、十七世紀におけるカトリック宗教改革、つまり反宗教改革とか対抗宗教改革とかいわれる動きにほかならないことは、まえにもふれた。しかしカトリックの場合、信仰の純化と内面化ということは、プロテスタントほど徹底しない。つまり、たえず民間信仰的側面をふくみこみながら展開してきたのであり、それがカトリックの強さでもあった。なかでも、とりわけ民衆による聖人信仰は、そのようなカトリックの特徴を端的に示しているといえる。  聖人信仰にみられる民衆の関心が、死後の救済であるとともに、この世における生にまつわる祈願でもあったことは、いまみたとおりである。民衆にとって聖人とは、彼岸と此岸の媒介者であるとともに、この世についての祈願を神のもとにとどけてくれる架け橋にほかならない。そうしてそれぞれの村の守護聖人祭は、時期もやりかたもそれぞれ独自に一年のなかで、キリスト教と民間信仰的側面との結びつきをまのあたりに展開したのである。とくにブルターニュ地方のパルドンとよばれる祭礼は有名である。  本節のはじめのところで、九月八日の聖母マリア生誕記念日をチラと出しておいたのだが、かつての習俗世界においてこの日は、八月十五日の聖母被昇天の祝日アソンプシォンとならぶほど、九月の宗教暦のなかで大きな位置をしめていた。ブルターニュ地方ではこの日、ほぼ全域で、聖マリアとか、ノートル=ダム、聖処女とかの名のついた教会や礼拝堂への巡礼が、行なわれたものであった。じつはブルターニュにかぎらず、民衆のキリスト教において聖母マリアのしめている位置は、きわめておおきなものとしてある。神と人間との架け橋としての聖人たちのなかでも、マリアは、なんといってもナンバーワンなのである。子宝にめぐまれるために、安産のために、あるいは豊饒のために、日でりがつづけば雨をもとめて、雨がつづけば太陽をもとめて、人びとはさまざまにマリア像に想いを託したのであった。 [#改ページ]   6 「聖母出現」の不思議  一八四六年九月十九日の土曜日、午後三時ころであった。舞台はイゼール県、グルノーブルから南南東へ、ほど遠からぬ山中の寒村、ラ=サレット村。ふたりの羊番の子どもたちのまえに、聖母マリアがあらわれた。その十一歳の少年と十五歳の少女とは、光かがやくなかに白い服の聖母マリアの姿をみたばかりではなく、こう語る聖母の言葉を耳にした。前年のジャガイモの不作は、人びとの不信心の報いであり、このような状態がなおつづくなら、不作はなおいっそう人びとを苦しめつづけるであろう、と。これを子どもたちに、土地の言葉で語りかけた、というところがおもしろい。そして最後に、こんどは標準のフランス語で「すべての民に伝えよ」と言い残して、その姿は宙に消えた、というのだ。  この話が口づてにひろまり、新聞に報道されるや、その反響はおどろくほどはやく全フランスにおよんだ。やがてこの山のなかの寒村に建てられた聖母教会は、たいへんな人びとを集める巡礼地となる。  じつは「聖母マリア出現」といわれるこのような現象は、カトリック世界において数多く報告されているのだが、とりわけ十九世紀は、その頻度において群をぬいている。ラ=サレットの聖母出現のあとも、ひきつづいて周辺のイゼールやドロームの山のなかで聖母をみたというものが続出した。心意現象にせよ現実に何かを目にしたにせよ、それがどこまで本当でどこまで作り話なのかは、今となっては知るよしはない。だがこのラ=サレット以後、一八五八年のあの有名なルールドをふくめて、とくに多くの事例が記録されることになる。フィリップ・ブトリーという歴史家によれば、一八三〇年にパリのバック街に出現したとされる件から、一八九六年のカルヴァドス県の事例にいたるまで、出現箇所は五十におよび、延べ回数にすると数百回にもなろうかという。一人のひとのまえに何回もあらわれたり、一箇所で多くの人びとに続けて何日も出現したといわれる事例もある。  カトリックの人たちからは不遜であるとのそしりを受けるかもしれぬが、日本でいうモノノケやテング、あるいは現代のUFOなどと対比できるだろうか。これらの不思議な話のなかには、もちろん単純な作り話もあるかもしれない。しかしある種の超常現象とでもいうべき出来事、少なくとも現在の科学的合理性からは説明しがたい出来事が、作り話でなくありうることは、たしかなようである。表現をかえて、地球上のすべての現象が科学的合理性で説明されつくされているわけではない、といったほうが穏当だろうか。「聖母出現」という一群の出来事をどう解釈すべきか、あるいは多くの場合「出現」を体験したのが子どもだったことをどう解釈するか、などについては私自身もまだよくわからないので、ここで述べることもできないが、それらの出来事をつつみこんでいた全般的な状況については、いくらか書きとどめることができるだろう。  ひとつは、なんらかの社会的緊張や危機的状況の存在ということである。それは「出現」の現象そのものを説明するわけではないとしても、その反響を考える場合には重要であり、無視できない。たとえばラ=サレットでの出現の時期は、お告げの内容にもあったように、天候不順もあって農業不作がきわめて深刻であった。たしかにアンシァン・レジーム下とは異なり、あるいは同時代のアイルランドなどともちがい、この時期のフランスは飢餓状態におちいるほどではなかった。だが民衆にとって農業不作の影響は、やはり重くのしかかっていたのである。  つねにそうした明瞭な危機状態がともなわれたわけではないにしても、十九世紀という世紀はフランスにとって、政治的激動が繰りかえされたばかりではなく、経済・社会あるいは物の考えかたの変化が人びとの日常生活領域にまで浸透してきて、たえずある種の緊張状態を準備するような、そういう状況が全般的に存在していたといえる。時間をめぐる検討のなかで、すでに第㈵部でもいささか言及したことである。変化がもたらす社会的緊張にたいしては、都市は都市なりに、たとえば工場の就業規則をめぐる日常的抗争だの、民衆蜂起だのの反応をもって答えていたわけであるが、習俗世界からのひとつのリスポンスが「出現」現象としてあらわれたのかもしれない。ひとつの解釈にはすぎないが、ごく一部のパリやリヨンの例をのぞくと、「出現」現象が都市ではなく農村や山村、それも周辺的な位置にあるような場所に比較的多く、しかもそれぞれの土地の言葉で聖母が語りかけているということが、なにやら示唆的なようにも思えるが、どんなものだろうか。いずれにせよ、「出現」の反響がおどろくほど速くひろく伝わったことの背景には、こうした全般的状況が存在していたのである。  なぜ出現するのが聖母マリアなのか、ということも当然問題になるわけだが、これは、十九世紀にひろく認められるマリア信仰をぬきにしては考えられない。もちろんマリア信仰は十九世紀にはじまったことではなく、ノートル=ダムをはじめマリアにちなんだ名が冠せられた教会や礼拝堂、像や絵などのイコンの多さ、それらの教会などへの巡礼も、十九世紀以前からのことである。そうした聖母礼拝のひろまりは、十二世紀からとくに顕著になったものであった。そのころ、イエスの人間としての側面に意を注いだキリスト研究が発展しだし、その母としての聖母マリアへの関心もまた増大しはじめた、そして民衆の大地母神的な豊饒への祈りと聖母マリアとが結びついたのだ、と説明されたりするのだが、民衆のあいだにまで、どのようにしてなぜこの中世の時期に、とりわけ聖母礼拝がひろまるのかは、いまのところもうひとつはっきりしない。おそらくは民衆心性の変化のうえで、かなりおおきな意味をもっているとも推測され、おおいに関心をくすぐられる問題である。  十九世紀には、革命後のまきかえしをはかるカトリック教会が、民衆のあいだに中世以来つづいてきたマリア信仰を、積極的に前面におしだし、各地にロザリオ信心会を組織するなど、おもに女性をターゲットにして教会の力の再興をはかったのであった。一八五四年には、法王ピウス九世によって、「聖母の無原罪のお宿りImmacul仔 Conception」の教書が発せられる。マリアは、神の恩寵によって、まったく原罪を犯すことなくイエスを懐胎した、つまり本質的に純潔なのだ、というわけである。教会側からすれば、マリアこそ、あのにくき共和国の「自由の女神」にたいする有力な対抗馬だ、ということになる。こうして教会が展開するマリアを媒介とした捲きかえし作戦と、民衆のなかに連綿とつづいてきたマリア信仰とは、微妙にクロスすることになるのだが、しかし両者を単純に同一視することはゆるされない。  教会は、つぎつぎに出てくる「出現」現象にたいしては慎重な対応をしており、司教区の責任で必要な場合には調査を行ない、公認するかどうかを検討した。公認の事例中もっとも有名なのは、なんといってもルールドの場合であり、よく知られたようにこの場合には「出現」のみでなく、病いの治癒という奇蹟ともかさなっていた。しかし多くの場合には、教会は「出現」についてとりたてた動きを示すより、沈黙のうちにやりすごした。それは、マリア信仰をもふくむ民衆の聖人信仰のありかたが、ある種の異教的要素、ないしは呪術的要素と結びついていたがゆえ、のことではなかっただろうか。  そもそも民衆における聖人たちへの信仰が、キリスト教以前の多神信仰を引きついだものであるのかどうか、つまりほんらい異教的起源をもつのか否かについては、異教起源論をとなえた民俗学者サンティーヴを中心として、十九世紀末から今世紀はじめにかけて論争が行なわれている。しかし起源についてはしょせん推論の域をでるはずもなく、歴史的観点からすれば重要なのは起源ではなく、それぞれの時点で聖人信仰がいかなる内実をもって生きられていたのかという現実にほかならない、という点を指摘しておきたい。  起源がどうであれ、民衆の信仰において聖人は、前節でもみたようにみずからと神との架け橋であり、また場合によっては神の意志を通訳してくれる、そういう存在であった。聖人が病気を治す特別な力をもっているとして信心の対象となったことや、あるいは中世後半から進行した、それぞれの村や町、職業などに応じた守護聖人というかたちでの特定化についても、前節でふれたとおりである。その場合にしばしば、その聖人の殉教の性格であるとか、生涯の伝記的出来事や伝説、あるいは名前の発音がもつ連想性がおおきな意味をもったのである。  そうしたなかでも、もっとも多く祈りの対象となったのが聖母マリアだった。これはフランスばかりではなく、ヨーロッパ全域、とりわけ地中海世界につよくみられる傾向であるし、またラテンアメリカでのカトリック信仰も、民衆のあいだではきわめて強いマリア信仰のかたちをとり、しかもその信仰がしばしばそれぞれの土地の土着の神々との接点上に位置するような具合になっていることは、よく指摘されるところである。フランスの民衆においてもマリアは、想いのたけを目にみえない会話でかわす相手、病いや事故などの危機的状況に救いの手をのべてくれる存在、すなわちミゼリコルド、つまり慈愛のイメージをもった存在として、祈りの対象となっていたのである。日本風にいえば「観音菩薩」的存在といったらよいかもしれない。  そしてまた、日常生活における娘や若い母親たちのモデルとしてのマドンナでもあったわけだが、それはとくに、「母親としての女」あるいは母性が社会的に強調された十九世紀において、強くうちだされたイメージでもあるように思われる。だが、子どもを産み、はぐくむことをめぐる喜びや懸念や苦しみと結びついたマリア信仰の強さは、民衆の日常生活のうちに組みこまれた信仰の強さでもあった。マリアへむけた祈りの多さ、礼拝堂への巡礼、奉納などの多さが、それを物語ってくれる。神への加護の願いをかけ、また加護があたえられたことへの御礼のしるしに奉納された絵馬においても、聖母マリアは民衆が好んで描いた、あるいは描かせたものであった。絵馬は、いわば神とのあいだでの贈与のやりとりのしるしであり、その仲介者こそが聖母マリアというわけである。そのひとつの特徴は、マリアと人間とが直接コミュニケートするように描かれており、そこに司祭など教会聖職者の姿はほとんど登場しないということである。教会側は、一六二八年のアルル大司教の禁令のように、そのような絵馬を禁止したり規制したりしようとした時期もあったが、十九世紀には一般に黙認の態度をとっている。  マリア信仰と関連した伝承も多くあった。よく知られた例は、こういう一種の起源譚である。子どもとか羊飼いの少年とかが、とある場所で聖母マリア像をたまたま見つけ、それを村に持ち帰った。ところが翌朝になるとその像の姿がみえない。皆で探しまわると、もとあった場所にもどっている。そこで村人たちはその場所にマリア礼拝堂をたて、やがてそこは近隣からの巡礼地になった、と。「出現」という不思議な出来事の舞台の少なくも背景は、こうしたマリア信仰の土壌のなかで用意されたのだった。 [#改ページ]   7 死に想いをいたすとき  一年の時の流れをサイクルとしてとらえたとき、十一月は五月にたいして、ちょうど円周上の反対側にくる。五月一日が生の決定的なよみがえりとして、屋外活動が本格化することをしるすとすれば、その対極に位置する十一月一日は死をめぐる慣行にいろどられた日であり、屋外活動が終息し、いよいよ人びとは本格的な冬を迎える準備に入ってゆく。十一月一日の万聖節は、文字どおり、すべての聖人たちのための追悼の日であった。中世においてはさまざまな聖者伝が書きしるされたが、十三世紀のジェノア大司教ヤコブス・ア・ヴォラギネ、フランス語ふうにいうとジャック・ド・ヴォラジーヌは、それら聖人たちの生涯についてあらわされたいくつもの伝記をまとめて書きあらため、『黄金伝説』という書物にまとめたが、おおむねつぎのようにしるしている。  われわれが忘れてしまっている多くの聖人たちがおり、かれらはみずからの祝祭日をもっていないばかりではなく、祈りのなかで追悼されてもいない。そうした不十分な欠落を補うために、万聖節はもうけられた。じっさい、われわれの欠陥というばかりではなく、聖人たちの数の多さからしても、すべての聖人にそれぞれ一日ずつをあてることはできないことだ、と。  つまり、一年のかぎられた日数のなかでは、すべての聖人たちの祝祭と追悼の日を個々別々に用意することは不可能である。しかも列聖の事例は、年をへるごとにふえてこそゆけ、へることはない。そこで一年のなかに、すべての聖人たちを追悼する特別の日をもうけた、というわけである。オクスフォード版『教会事典』によれば、教皇グレゴリウス三世のころ、つまり八世紀がそろそろなかばにさしかかろうかという時代から、この日を聖人たちにささげることがはじまり、そののちグレゴリウス四世のとき、八三五年に公式に制度化されたのであった。  ところで、キリスト教化される以前のケルトの伝統では、十一月一日は、一族のなかの死んだ祖先たちを追悼する日であり、この日は死者たちのために食事を用意して待つという慣行があった。そしてこの慣行は、十世紀末までみられたという。とすれば、教会は、この日を万聖節とすることで、このケルトの伝統をみずからの方へひきつけ、よみかえ、民衆のキリスト教化のひとつの手だてとしたのだ、という推論も可能であろう。  十一月一日が万聖節とされたのにたいし、じっさい十世紀末からはつぎの二日が、より一般的にすべての死者たちを追悼する万霊節とされることになった。これは、ベネディクト派の有名なクリュニー修道院からはじめられた、とされている。しかし時代がたつにつれ、民衆のあいだでは、両者は混ざりあってくる。そして一日の万聖節の日は、聖人たちの日であると同時に死者たちの日として、あるいは聖人たちの日としてよりも死者たちの日としての性格を、強くするようになるのである。  十九世紀のラングドック地方、モンセギュールの一帯では、死者たちのためにこの日、食事を用意してテーブルにならべておく、という慣行が生きていたという。もちろんこれをしてケルト的伝統への回帰とか、ケルト的伝統の存続、というのは、あまりに短絡的というものだろう。だが民衆の伝承慣行の世界にあっては、万聖節は同時に死者たちの日となってゆくのである。そして、それが決定的にそうなるのは、十九世紀のことであった。日頃はまず教会へ足を運ばない人びとも、万聖節の日には教会のミサに出席した。一年のうちで人びとがもっとも多く教会にむかう日が、この万聖節の日だったのである。しかしそれは、すべての聖人たちを追悼するためであるよりも、すべての死者たちを追悼し、とりわけ家族のなかの死者たち、先祖たちに祈りをささげるためであった。そしてミサのあと、墓参りのために墓地をおとなうのである。  墓参というと、一見ずっとむかしからあったかのように思える。しかし、フィリップ・アリエスがあきらかにしたように、それが慣行として一般化するのはヨーロッパの場合、十九世紀になってからのことにすぎない。というのも、高位聖職者や王侯貴族を別にすれば、かつてふつうの人びとは、個人別、あるいは家族別の墓をもっていたわけではなく、人びとは共同の墓所に共同体の一員として葬られることが一般であった。共同体のなかに生をおくった人びとは、死んだのちも、いわば死者たちの共同体のうちに加わるというように。そして墓地はしばしば広場のような役割をはたし、市《いち》がたったり祭りの集会の場にすらなったりした。そこでは、生者の世界と死者の世界とは、画然と区別されてはいなかった。こうしたありかたに変化がはっきりと生じてくるのは、ほぼ十八世紀からのことにすぎないのである。日本での御彼岸とおなじように、墓にささげられる花として菊が好んでもちいられるようになるのも、十九世紀のなかばからのことであった。と、この菊についての話は、かのヴァン=ジェネップがしるしている。  墓参のような人びとの行為、あるいは墓や墓地のありかたに示されるような、人びとの死にたいする態度や心のありようは、けっして超歴史的な変わらざるものではなく、時と所に応じて変化しうる、つまり人びとの形づくる文化に対応したものにほかならない。そして十九世紀はおそらく、おなじフランスのなかでも、農民たちと都市のブルジョワジー、あるいはまた労働者と、さらには知的エリート層や芸術家など、死をまえにした態度においてきわめて多様な差異が生じた世紀とみなすことができるであろう。人間の死を、人体における生命の作動が止まることとみなす医学のとらえかたと、農民の伝承慣行のなかでとらえられていた死とでは、差異というよりむしろ断絶というのがふさわしいくらい、両者のあいだの距離はおおきくへだたっている。  かつては聖職者たちが、いわば人びとが死と直面し、死と対話するための媒介者として、独占的位置をしめていた。しかし十九世紀には、すでにその位置はゆるぎはじめている。そして、いわゆるパストゥール革命をへて、臨床治療上の有効性を増した医学は、それにとってかわる方向を、世紀末にはみずからのものとしだすことになる。みずからが生きてきた家で、家族や隣人たちのなかで死をむかえるのではなく、クリニックや病院が死のための場所となりだす。死の医療化ないし病院化といわれる現象が、その端緒をあきらかにしだしたのが、十九世紀の末のことであった。一方にそのような、現代につながってくる状況が存在した。  しかし他方で、農民の伝承慣行にみられる死をめぐる信心は、すでに前節までに書いてきた祭りやその他の慣行にみてとれるのと同様、非キリスト教的で、場合によってはキリスト教以前からのものと相同の民間信仰と、農村化したキリスト教とからできた、一種の合金だったのである。死後における肉体と魂の分離、死者たちの世界の存在、死者の魂の彷徨などが、信心として生きつづけていた。あるいは少なくとも、そのような信心をもととする慣行が数多く生きつづけていた。  プロヴァンス地方では、さまよう死者の魂はエスプリ・ファミリエとか、エスプリ・ファンタスティとよばれ、バス=ブルターニュではアンクーという擬人化した存在でとらえられた。このアンクーは、日本風にいえば死神のイメージにちかく、つぎの死すべき者を探してまわる恐ろしい存在とされたのであった。冬の夜、暖炉のまえで語るおじいさんの話に、あたかもおもてをアンクーが走りまわっているかのようにおびえながら、ブルターニュの子どもたちはぞくぞくして耳をかたむけたことであろう。おなじブルターニュでは、死者たちの魂はまたアナオンとよばれ、十一月一日から二日へかけての夜は、生者の世界と死者の世界との境界が消失し、アナオンが生者の世界にやってくる日とみなされた。そこでこの日には、独特のタブーが伝えられた。それはプロヴァンスやブルターニュのみのことではなく、フランスの各地にそれぞれ地方色をともないながら、みられたものである。  万聖節から万霊節へかけてのタブーには、たとえばつぎのようなものがある。まず労働のタブー。つまりこの日は、人の死にともなう服喪と同様、ふつうの日常的活動はすべて停止して、ひたすら死および死者を中心に生がいとなまれねばならない、ということであった。土を掘ったり耕してはならない、とか、漁に出てはならない、というタブーもやはりそうである。それを破った場合には、地中からは人骨ばかりが出てくる、とか、あるいは網にかかるのは人骨ばかりで、といった怪談のような話となる。また旅をしたり、夜外出するのもタブーとされた。彷徨する死者の魂と出会うおそれがあるからだ、と。ほかにもいくつもあるのだが、へえ、なるほどなあ、と妙に感心させられてしまうタブーに、この日は掃き掃除を家のなかでしてはならない、というのがある。これは人が死んだ場合にもいわれたことであった。この日、なつかしい生前の家にもどってきた死者の魂を、まちがって掃きだしてしまったらたいへんだ、というわけである。  こうして万聖節と万霊節とは、なによりも死に想いをいたすための日々であった。そして諸慣行を伝承するなかで、いま生きている人びとと、すでに他界した人びととの、つまり生者と死者とのきずなが、想起されたのである。墓参をしながら人びとは、いわば墓碑のむこうがわに永遠をみつめていたのだった。  やがて十一月十一日には、聖マルタンの日がくる。四世紀にガリアの地に布教したこの人は、フランスにとって偉大な聖人ではあるのだが、しかし特記すべき祭礼や伝承慣行はみとめられない。ドイツなどで、聖マルチン祭が子どもの祭礼としてさかんだったことを思えば、いささか不思議な気もするのであるが。  むしろ第一次大戦後に十一月十一日は、大戦の休戦協定を記念した祝日となり、戦死者追悼のための行事を町や村で行なうことが慣例化してゆく。七月十四日の場合とおなじように、フランスにとっては戦勝記念日でもある十一月十一日は、うえから政治的に組織されたものであった。それが十一月であるのは、戦争の成りゆきとからんでたまたまそうなったにすぎないわけだが、多くの戦死者をだした町や村でのその追悼碑をまえにした祈りは、やはり十一月に死の影をあたえることになる。こうして十一月は、生のいとなみが沈潜へとむかう時期にたとえることができよう。だが、沈みっぱなしなのではもちろんない。それは、あらたなサイクル再生のシンボルとしてのクリスマスへむけて、ひそやかに待機する時なのである。キリストの到来を待つ待降節 Avent が、十一月の末にはじまる。 [#改ページ]   8 ノエルの季節 「聖カトリーヌの日がくれば、もうすぐそこに冬がきている」とか、「白いマントをはおった聖カトリーヌが、ながくつづく寒さをつれてやってくる」などといわれたように、若い娘たちの守護聖である聖カトリーヌの日になると、つまり十一月二十五日には、いよいよ冬が本格化するとみなされていた。そして十一月末にはじまる待降節がくれば、クリスマスはもうすぐそこ、かけ足でやってくる。クリスマスは、なにより寒さと雪とに結びつけられて連想される。けれども考えてみれば、イエスの生誕の地ベツレヘムは、あまり雪とは縁がなさそうだから、この連想はいかにもヨーロッパ的といわなければなるまい。  それに、イエスの生誕の日付そのものは、聖書を繰りかえし読んでみても、どうやらどこにも見あたらない。十二月二十五日をイエス生誕の日として祝うことは、四世紀のローマにはじまったことであった。もっともローマ教会の場合と、東方諸教会の場合とでは事情が異なっており、ローマ・カトリックによる十二月二十五日の決定にもさまざまな要因がからんでいるが、ここではその細部には立ちいらないことにする。  フランス語ではクリスマスのことをノエルNo鼠 という。その語源は、正確なところは不詳であるというのがほんとうのようだが、もっとも有力な説は、むかしのフランス語で「新しい」ことをノヴェルとかヌエルとかといったことから転じた、というものである。じっさいイエスの生誕は、人類にとっての救い主の生誕、つまり「世の光」の到来、希望のはじまりなのであったし、そしてこの季節は、冬至をすぎてふたたび昼がながくなりだす時期にほかならない。これから寒さや雪が本格的になりだすとはいえ、すでに遠くに春のよみがえりの予兆が期待され、あらたな一年のサイクルがはじまるのだ。  じじつ、かつてにおいて一年のはじまりがノエルと定められていたこともあったのである。フランスにおいて一月一日を年のはじめと定めたのは、一五六四年、シャルル九世の王令であった。それまでは、年のはじめは復活祭とされていた。そしてさらにさかのぼると、シャルルマーニュの時代から十世紀のおわりにかけては、ノエルが年のはじめと定められていたのである。  十一月が、死への連想にもとづいて悲しく沈んだイメージであるとすれば、ノエルにはじまる祭礼の期間は、なにより喜び、楽しさ、快活さにあふれるときであった。  ノエルにはじまる祭礼の期間、といま書いた。そう、ノエルは決して孤立した祭日ではなかったのである。大多数の地方では、十二月二十五日のノエルから一月六日の「三王の日」あるいは公現日までの十二日間が、ひとつながりの祭礼期間とみなされ、文字どおり十二日間 Douze jours とよばれたのであった。ドイツやイングランドなどでは十二夜と、夜がよび名にもちいられているが、フランスではもっぱら昼の方が好まれたようだ。三王とはもちろん、星にみちびかれてキリスト生誕を祝福しに馳せ参じたといわれるあの王たちのことである。  また例によって、地域によるおおきな差があったことにふれなければならない。十二日間というのが一般的なのだが、ところによっては、待降節からの連続のうちにノエルを位置づけていたり、あるいはプロヴァンス地方の一部でのように、公現日をはるかにこえて、二月二日の聖母お清めの祝日までの期間をひとくくりにとらえる地域もあったのであり、期間の設定はかならずしも一定していない。  そもそもノエルというよびかたについても、同様であった。ここでまた例のヴァン=ジェネップ先生に登場してもらうことにする。なにしろかれの民俗慣行についての著作は、われわれにとってまったく貴重なデータ・バンクといってよい。かれによれば、フランス各地でのよびかたには、さまざまなヴァリエーションがもともとあった。それらはいくつかの系列に整理できる。ラテン語のカレンダス Calendas からきた系列のもの。たとえばプロヴァンス地方でのカレンドなどがそれにあたる。ラテン語のディエス・ナタリス Dies Natalis からきた、たとえばバ=ラングドック地方のナダルなどの系列。おそらくナタリスからの派生としてのノーなどといった系列。こちらはジロンド地方やシャラントにみられた。そして北部、東部を中心としたノエルの系列。これにはノエとかヌエといった変形も存在した。こうした地域それぞれの色彩をもったよびかたは、十八、十九世紀を通じてノエルに一本化されてゆく。それは方言や地域言語がしばしばさげすまれ、標準のフランス語へと変えられてゆくプロセスと対応していたのであり、ことに十九世紀における小学校教育の普及が、この変化に決定的役割をはたしたのであった。  一年のサイクルのなかで、十一月一日の万聖節が五月一日の生命の祭典と対《つい》をなしていたのとおなじように、ノエルは、ちょうどサン=ジャンの祭りと対をなしている。サン=ジャンが六月の夏至ちかく、屋外活動のさなかに行なわれるとすれば、ノエルは冬至ちかく、屋外活動が終息し、人びとの生活が家のなかを基本にしている時節の祭礼である。サン=ジャンの巨大なたき火とちょうど対称をなすように、ノエルには家のなかで薪をもちいた慣行がなされるのであった。  いまでは薪を象ったケーキにわずかに名残りをとどめているこの慣行は、かつては、やはりさまざまな地域的色彩をともないながら、ノエルを特徴づけていた。ノルマンディ地方でのように、屋外でたき火がなされたり、ワラのたいまつが用意されたような例外的事例もあったから、すべて屋内で、というわけではないのだが、しかし基本は屋内の暖炉で行なうものであった。一八三〇年ころのサンセール、あの白ブドウ酒で有名なサンセール一帯で記録された慣行が、ほぼそのイメージをあたえてくれる。  ノエルの前夜、家の主人は、とっておきの大きな薪に聖水をふりかけ、それを暖炉にくべる。家のものや子どもたちは、ひざまずいて祈りをささげる。深夜ミサのあと、その薪の火はいったん消され、新年一月一日にふたたび火にくべられる、というものである。  この儀礼のまえに暖炉をきれいに掃除する、という地方もあった。もちろん実際的に、年に一度は大掃除してきれいにする、という意味もあったわけだが、同時にまた理由として、ノエル前夜にはマリア様が幼な子イエス様をともなわれて御来訪なさる、という信心があった。だからきれいにしておかねば、ということだ。悪魔や呪いが跳梁する夜は、ふだんはとくに女や子どもにとっては危険な時間とみなされたのだが、この夜ばかりは聖母マリアの加護のもとにあるがゆえに安全だ、とも考えられた。そして一家そろって深夜ミサへ出かけ、小さな赤ちゃんを家に残しておいても危険はない、とされるのである。ノエルは主として、家族のまとまりを強める祭礼なのでもあった。  薪を何日間も燃えつづけさせるというところもあった。この薪のよび名がまた千差万別といってもよいほど、地域ごとにちがっており、ヴァン=ジェネップのリストにならってずっとあげてゆけば、うんざりするほど何ページにもわたろうかというくらいのものなのである。燃えさしや灰はだいじにとっておかれたが、それは、さまざまなお守りとして使うためであった。たとえば雷よけや火事よけである。薪の火と天の火、あるいは火事という火の連想であり、同類をもって同類をしりぞけるという呪術的発想にもとづいた効用であることは、サン=ジャンの場合にのべたこととおなじである。あるいは病気や事故から一家を守るために、あるいは呪いをはらうために、という用途にも使われた。  薪の火を太陽と結びつけ、ノエルをかつての冬至祭の後身とみなすとらえかたが、ちょうどサン=ジャンを夏至の太陽祭と結びつけたように、少なからぬ民俗学者によって表明されている。だが、ヴァン=ジェネップは、サン=ジャンの場合同様これを根拠なしとしてしりぞけている。その正否はともかく、ノエルが、夜にたいする昼の勝利、希望のシンボルであったことはたしかである。  ノエルをめぐっては、まだまだ書くべきことは多くあるだろうが、最後に、なんといってもクリスマス・ツリーとサンタクロースにふれておこう。いまでは不可欠となっているかにみえるこれらの要素は、しかしもともと民俗慣行としてフランスにあったわけではない。おもいきり単純にしていえば、これらはアメリカからの輸入物なのである。とくにサンタクロースの場合がそうだ。はっきりした時期や経過はよくわからないのだが、おそらく十九世紀末以降、パリなど大都市を中心に徐々に入っていったもののようである。もっともクリスマス・ツリーの方は、植田重雄氏の著作によれば十七世紀のアルザス地方ですでに記録があり、ドイツの諸地域ではゲルマンの聖樹神話とも関連して、かなりひろまっていたとされている。フランスの場合には、カトリック教会が樹木崇拝を異教的残滓として強く禁止していたということが、規制力としてはたらいていたのであろうか。  いまのアメリカ型サンタクロースは、フランスではペール・ノエルP俊e No鼠 といわれるが、これとは別に、子どもの守護聖人であった聖ニコラ(ニコラウス)が、かつてやはり子どもに贈り物を配って歩くお爺さんとして、とくに北部の諸地方でとおっていた。よい子にはよい贈り物をくれる、ということで、子どもたちはなかば恐れをもちながら胸ときめかしたのである。しかし聖ニコラの祝祭は十二月六日であって、クリスマス・イヴではなく、またかれの乗り物は、トナカイではなくてロバとされていた。ノエルの擬人化が女性に託される地方もあった。モンベリアール、フランシュ=コンテ、ジュラなど、ドイツやスイスに近い地域であるが、そこで「タント・アリー」つまり「アリーおばさん」とよばれる、美しいが、また鉄の歯をもち、足はガチョウの形をしているという妖精が語り伝えられていた。よい子には贈り物を、悪い子にはこらしめをくれる、というわけで、ようするに子どもたちへの一種の教育手段でもあったといえよう。  クリスマス・イヴに贈り物を配ってくれる役は、民間伝承の世界では、むしろ幼な子イエスそのひととされていた事例も多い。アルザス、ロレーヌ、シャンパーニュなどの地方で指摘されている。一九七〇年代に百二十万部という空前のベストセラーになったエリアスの『誇り高き馬』は、かつてのブルターニュ地方の民衆の日常生活を回想したものだが、そこにおもしろく描かれているのも、やはりこの幼な子イエスの事例なのである。 [#改ページ]   9 ながくさむい夜をやりすごすために  いまみたように、クリスマスにはじまる十二日間の祭礼期間は、かつてのフランスの習俗世界において、一年のあらたなサイクルの開始をしるすものであった。それはまた遠くに春の予兆を感じとる、そういう期待のはじまりでもある。ノエルの日や大晦日、聖シルヴェストルの日、子どもたちが家々をたずね歩いてお祝いをもらい、そのかわりに置いてゆくのは、幸福への祈りと緑ゆたかな常緑樹の枝であった。春を想わせる緑の葉は、冬のきびしい寒さのなかで、とりわけ雪のなかででもあろうものなら、まことに印象的ではなかろうか。ところによっては子どもたちは、次節でのべるカルナヴァルのときとおなじように、顔を黒くぬったり、妙な格好に変装した。日本でいえば「なまはげ」にもちょっと似た習俗である。「なまはげ」は大人が演じるわけだが。  これ以後、五月の祭礼にいたるまでに行なわれるかずかずの儀礼には、多かれ少なかれ春をよびまねき、春の再来を祝する性格がつきそうことになる。聖シルヴェストルの日から一月六日まで、やどり木の玉を家にかざる風習もみられたが、これも同様の意味をもっている。秋もおわり、裸の木ずえに風がつめたくなるころからフランスを旅してみると気づくのだが、林の枯木のなかにしばしばやどり木の緑の玉が目につく。日本ではあまり見かけないから、かなり印象的である。緑のやどり木の玉をかざることは、いうなれば春のメタファーであった。そして枯れ木のなかで緑のままでいるやどり木は、ほかにはないマジカルな力をもつものともみなされていた。  だがもちろん、現実においては冬は真盛りなのであり、夜はながく、そして暗く冷たい。  冬をなかにして、秋がふかまり春がふたたびめぐってくるまでの期間は、人びとの生活が屋内を基調としたものに変わるときであった。それは、都市型の生活からは、ことに現代の都市生活からは実感しがたい生活の時空であった。もちろんこの期間といえども、よほど雪に閉ざされてしまうところをのぞけば、土地をたがやしかえしたり種まきをするなどつぎの収穫のための準備や、家畜の世話やブドウの木の剪定といった、屋外での仕事がそれぞれの農業経営のありかたに応じて存在したことは、いうまでもない。だが、なにせ夜がながいのだ。この時期ほど、ヨーロッパがなんと北に位置していることか、という思いを痛切にすることはない。  さて、そのながい夜を、まさか冬眠してすごすわけにもいかない。第五節でもってすでに少しふれたことだが、この屋内を基調とした生活において重要な位置をしめたのが、というよりも、その夜の生活そのものであったのが、「夜の集い」という慣行であった。  かのフレデリック・ミストラルが書いている。十九世紀なかばと世紀末とを比較して感じとられるきわめて重要な変化は、「夜の集い」に示されるかつての家族や隣人関係が、世紀なかばには生き生きと濃密に存在していたのに、世紀末にはその影が薄くなってしまったことだ、と。もちろんそこには、かれなりの憂愁の想いがこめられていたのであり、おそらくはかつての生活の、いささかの美化がともなわれていたであろう。しかしまた、フランス文学史のなかでも特異な存在と思われる農民作家エミール・ギヨマンは、やはり十九世紀後半には伝統的な社会生活の場としての「夜の集い」が徐々にうとまれ、男たちは歓談の場を村の旅籠屋での集いにもとめるようになった、と書きのこしてくれている。貧農の出であったギヨマンは、パリ育ちの粋人ダニエル・アレヴィなどとも親交があったが、かつまた農民運動などにも深くコミットした人物で、およそミストラル風のノスタルジーとは縁がない。かれが描いたのは、終生みずからが暮し、農業に生きた地方であるブルボネ地方のこと、中央山塊の北東辺の生活であった。  こうして記録された「夜の集い」の衰退は、十九世紀後半に明瞭になってくる農村生活の変化を示す、一指標ということができるだろう。この時期から、鉄道をはじめとした交通・通信などのコミュニケーション網の拡大と浸透、あるいは学校教育や行政諸制度の整備、新聞などメディアの台頭と市場経済のいっそうの進展、こうしたもろもろの状況が、それぞれの村にたいし、そこに生きる人びとにたいし、否応なしに外部世界との関係性の増大をせまったのである。まずは男たちが、「夜の集い」ではなしに、カフェや居酒屋、旅籠のバーなどで、外部世界にむかってより開かれた社交の場をもつことになる。  けれどもこのことは、裏返せば、その時期までこの慣行は農村生活に深く根づいて存続していたことを、示すものにほかならない。それに、この時期をさかいに、まったく姿を消してしまうというわけではない。農村の習俗世界の変化は徐々にしかおとずれないのであって、二度の大戦をはさみ、過疎化や離村現象があらわれ、やがてテレビの普及に象徴されるような物質生活面での大幅な変化が体験されるまで、きわめておおきな地域差をもちながらゆっくりと変容していったのである。  ピエール・J・エリアスは、みずからの少年時代を回顧して、冬の夜、暖炉のまえでおじいさんからさまざまな話をきくのがいかに愉しみであったかを、郷愁をこめて描きあげている。それは、一九二〇年代のブルターニュの農村の話である。  さてここで、話をすこし昔へもどそう。「夜の集い」の慣行は、かつての農村生活の物理的条件ともあい応じたものであった。火はたいへん貴重だったのであり、とくにひどく貧しいわけではない農家でも、十九世紀をつうじてなお、一般に暖房のある部屋はひとつ、つまり暖炉のある共同の部屋のみだったのである。火が重要なものであり、家そのものと結びつけられてイメージされていたことは、たとえばアンシァン・レジーム下で世帯(戸)のことがフー feu(火)とよばれたこと、また家庭がフォワィエ foyer(炉)という語でも示された(これは今にいたるまで存続している)ことからも、うかがい知ることができるだろう。おまけにすきま風がたえず流れている部屋では、ほんとうに寒い時期になれば、暖炉のすぐそばでもなければ暖がとれないという条件があったわけである。家のものは皆、そこに集まる。貧しく暖炉も十分にたけないときには、家畜の体温を利用して家畜小屋で、あるいは共同の部屋と家畜小屋とを接続したかたちで、集いの場がもうけられたのであった。  もちろん、のんびりくつろいでばかりというわけではない。女たちは糸をつむいだり、布を織ったりといった手工業的生産にいそしむこともあれば、そこまでいかなくとも、つくろいものや編物をしたり、家のなかで片づけるべきことには、こと欠かなかった。男たちは道具を修理したり細工したり、あらたなものをこしらえたり、といった具合である。あるいは、くるみを割ったり、籠をつくったりといった手仕事もあった。  おおまかにいって「夜の集い」には、ふたつのかたちがあった。ひとつはエリアスが描いているような、家族の集いである。こちらの方が一般的な形態といえるであろう。物理的条件からしても自然な形態であった。親子のあいだで、あるいは祖父母から子どもたちへと経験がうけつがれ、またさまざまな説話が語り伝えられる場でもある。日本でいえば、いろりばたでの話ということになるであろうか。こうした場で民話は語り伝えられたのである。あのレチフ・ド・ラ・ブルトンヌが『わが父の生涯』で描いているのは、アンシァン・レジーム下の富農の家における、そうした集いの様子である。そこには奉公人もふくめてすべての家のものが集まり、家長たる父親が読みきかせる宗教的説話に、耳をかたむけるのであった。つまり、一種の教育の場でもあったわけだ。十七世紀にトロワではじまり、十八世紀から十九世紀なかばにかけて隆盛をきわめたいわゆる「青表紙叢書」の一冊が音読され、文字を読めないものもそうした「民衆本」の世界を共有できたことにも、「夜の集い」がはたした役割はおおきい。  もうひとつの形態は、家族の枠をこえて近隣のものたちを集めた社会的な集いである。ラブレとおなじ十六世紀のひとノエル・デュ・ファイユが『田園閑話』でふれているような、紡糸手工業にたずさわる女たちの集いが、その一例である。おなじ集落や、ときにはちがう集落からも集まって共同作業をしながら、情報を交換したり、うわさ話に耳をかたむける。あるいは近隣の複数の家族が、ひとつの家に集まり、仕事をしたり、いまふうにいえばちょっとしたつましいパーティーをやることで、濃密な社会関係を生きていた、といおうか。 [#挿絵(img/fig9.jpg、横×縦)] 「夜の集い」はまた、未婚の若い男と娘とが、いまふうにいえばデートする機会でもあった。エミール・ギヨマンの話の主人公ティエノンは、若いころ思いさだめた娘と「夜の集い」でおちあって、そのあと娘を家に送って帰るときのようすをいきいきと語っている。高なる胸をおさえながら二人で夜の闇のなかを歩いて、さあどう口説いたものか、というわけだ。ときにはもののみごとにヒジテツをくらうことにもなった。これは十九世紀のブルボネ地方の話である。  これらの集いは、村の司祭や世俗当局の管轄のおよばないところにあった社会関係、ないしは社交生活、つまり最近の歴史学でいうところのソシアビリテとして、聖俗双方の権力当局からは、猜疑のまなざしをむけられたものでもあった。いずれのかたちにせよ、そうした「夜の集い」に代表されるのは、ふつうの人びとが生を充実したものとして送るための重要な仕掛けであった。それは、外の世界からは相対的に自立した、独自のインフォーマルな空間のなかに形成されたものである。かつて歴史学は、もっぱらフォーマルな領域に焦点をすえることによって、インフォーマルな領域を問うことを等閑に付してきたのだが、最近になってやっと、そうした領域が社会編制にとってもつ重要性に気づきはじめている。  こうした「夜の集い」に示されるような農民たちのつきあいは、中世以来の住民共同体としての村の生活のなかで、つちかわれてきたものであった。アンシァン・レジーム下に約四万あったとされるこれらの住民共同体は、やはり中世のなかばから信者集団として形成されて教会組織の最小単位となる小教区とは、そのままかさなる場合も多かったし、ずれる場合もあった。面積や集落形態も、ところによって一定してはいない。アンシァン・レジームにおいて、法制的にはあいまいなまま、慣習的に実際上の自治体的役割を演じていたのが、これらの住民共同体である。一七八七年になってはじめて、王権は一連の行政改革王令のひとつとして、これらの住民共同体に自治体としての公的性格をあたえたのであるが、それが革命をへて十九世紀以降の最小自治単位であるコミューンに連続している。ということはフランスの場合、一般に農村の歴史的連続性は中世以来このかた連綿とつづいてきたものだ、ということである。  中世からアンシァン・レジームにかけて、そして十九世紀に地方議会や地方行政網が組織されてくるまでは、これらの農村の住民集会が、自治組織としての役割をはたしていた。日本での寄合のようなもので、各戸の長が広場などに集まって協議決定するわけである。中世以来規定上は、一年と一日以上その地に住んでいれば住民としての資格が生じたし、決定は多数決、重要事項については三分の二の採決が慣例となっていたから、一種の直接民主主義的な側面をもっていたといえるだろう。ただしあまり調和的なイメージをもつことは幻想であって、とくに十八世紀に近づくほど、聖俗双方の権力と関係のふかい有力者たちが実質的に運営を左右したし、経済的に力をたくわえた富農が発言力も強くもった。土地所有関係や封建的身分関係もふくめて、農村内部に、社会的な階層序列が明確に存在したことも、またたしかなのである。  人びとは、そのような住民共同体を基礎的なまとまりとして、共同の生活空間を生きていたのである。その空間内部では、出産・結婚・葬儀などといった人間の一生のサイクルにおける重要な出来事も、あるいはここでわれわれがみている一年の生活にリズムをあたえる出来事においても、公的な領域と私的な領域という区分は、きわめて稀薄であった。「近代的な個」という理念をたてるとすれば、きわめて狭くしがらみの強い社会だ、ということになろうが、しかし生存条件そのものがたいへんきびしいなかで人びとは、きわめて緊密なつきあい関係のネットワークを形成することで、たがいに助けあっていたのでもあった。だからどちらか一面だけをとって、単純に「遅れたもの」というレッテルをはることも、また「理想郷」のようなイメージをもつことも、ともにゆるされるわけではない。そのようなつきあい関係のネットワークは、公的権力や、さらには村の司祭の目すらなかなかおよばないこともありうるものであり、それぞれの土地に密着した習俗世界は、そうしたネットワークのうえに成りたち、存続していたのだ、とみなすことができる。したがって、そのようなネットワークがほころびてゆくとき、習俗世界もその独自な一貫性を失ってゆくことになる。 [#改ページ]   10 カルナヴァル——祭りの舞台と騒乱と  市門外の関の酒場で入市税のかからない安い酒を飲み、宴をはることは、十八世紀から十九世紀にかけてのパリ民衆の歓しみのひとつであった。とりわけ北東の市門のはずれ、クールティーユが、きわめつけのところであったことには第㈵部でもふれたとおりである。  その場末の街区クールティーユから、パリの中心部めざして多数の人びとが、とりどりに仮面をつけ、変装をこらして列をなした。パリのなかへとくりだされた行列は、告解の火曜日のドンチャン騒ぎをこのクールティーユの酒場ですごした人びとによって、翌朝まだ夜があけやらぬころからはじめられた。フランス語でいうカルナヴァル、英語でのカーニヴァルの終りをつげるこの仮装行列は、とりわけ一八二〇年代からほぼ十九世紀なかばまで、パリの謝肉祭になくてはならない行事であり、パリ民衆はみずからの手で自律的に、祝祭空間をつくりだしていたのである。やがて世紀末にいたるまでに、パリの謝肉祭は民衆自身による自律的な側面を後退させてしまう。祭りを組織し、やるものと、観るものとが分離されることになってゆく。いわゆる祭りの観光化や商業化の側面が強くなってしまうのだが、今はそういう話はやめにしよう。  行列がとおる街路という街路、広場という広場は、仮面と変装で満ちあふれ、騒々しい演技や歌や叫びが、そして笑いが、パリの町を民衆が演ずる舞台へと変え、日常の秩序からみればきわめて異様な雰囲気をただよわせた。だがそこには、一抹の悲しさもひきずられている。告解の火曜日があけて灰の水曜日ともなれば、騒ぎの終りがしるされ、肉断ちの精進期間である四旬節、すなわちカレームへと入ってゆくことになるからなのである。祭りの喧騒は、終るときにはいつも淋しい。もちろんカルナヴァルは、パリだけの話ではない。かつてのフランスにあって、農村の民俗慣行の世界においても、都市の習俗においても、カルナヴァルはきわめて注目される祭りであった。  語源についてはいくつかの説があるようだが、カルナヴァルとは肉食の許される期間の最後のことであり、つまり、もうすぐ食事からは肉がとりあげられますよということを告げ、肉断ちの期間であるカレームと対比されるのである。このカレームは、主日である日曜日の六日分を除いた復活祭前の四十日間という意味であり、したがって復活祭の四十六日前の、灰の水曜日から、この期間に入る。キリストが荒野でもって四十日間の断食の修行をしたということにちなんで、信者たるものはおなじだけの期間、精進すべしということなのである。よく知られているように、復活祭は月齢で決まる移動祭日だから、カレームもカルナヴァルも、月の満ち欠けと結びついて、二月から三月にかけての時期を動くことになる。  カルナヴァルは、現在のリオの謝肉祭やニースの謝肉祭との連想で、ドンチャン騒ぎの一日ないし数日、つまりフランスでジュール・グラ jours gras といわれる期間のみがそうであるかにみなされていることが多いが、もともとはカレームと同様、ある期間をさすものであった。ただしこの期間のはじまりは、ところによってちがっており、一定しているわけではない。少なからぬところでは、一月六日(公現日ないし三王の日)に起点がおかれる。ようするにノエルにはじまる十二日間の祭礼期間を、ただちに引きつぐということだ。ベアルン地方では、ノエルそのものからすでにはじまるとされていたし、また二月二日の聖母お清めの日が起点にとられる地域もあった。いずれにしても、ノエル以降復活祭までの、春をよびまねき、準備するための一連の祭り、ないしは慣行と結びついているのである。  二月二日は、生誕後四十日たったイエスをマリアがはじめて聖堂へ連れてゆき、みずからも産後の清めの祝別をうけたとされる故事にもとづいた日である。英語やフランス語の二月の語源になっているラテン語フェブルアリウスは、まさに「清めの月」という意味である。そしてこの二日は、各家でさまざまな慣行のさいにもちいるローソク、なかんずく死者の葬送という重要な儀礼にもちいるローソクを、教会で清めてもらう日であった。またしても火と光が登場する。イエスは「世の光」であり、光はまた春のあかるさとも結びつく。復活祭とおなじように、この日にはクレープを食べる風習があった。いまでこそクレープは、なんでもない食事でありオヤツであるが、かつて食生活のきびしい時代にあっては、それはハレの食事だったのである。クレープは丸い。四角いクレープなどはきいたこともないわけだが、この黄色い丸が太陽や月、すなわち光と結びついているのだ、という説もある。しかしなによりこの日は、習俗世界のイマジネーションにあっては、熊が冬眠からさめて外界の様子をうかがいに出てくることをしるす日であった。つまり、春がそろそろやってくることを期待する祭りの日でもあったわけである。そして、とりわけ農村習俗におけるカルナヴァルの騒ぎには、しばしば熊が主人公として登場する。もちろん人間が変装した熊であるが。  そのカルナヴァルの騒ぎの日であるジュール・グラもまた、ところによって一定していない。一般には、カレームに入る直前の日・月・火の三日間がそれであったが、パリの例のように灰の水曜日にかかってくるところもあり、日曜以前の日を含むところもあった。  いずれもカレームに入る直前だから、カレーム=プラナンCareme-prenant とかカレーム=アントランCareme-entrant といわれ、祭りにおいてカルナヴァルを象徴した人形やハリボテは、しばしばこれがなまってカラマントラン Caramentrant などとよばれたのである。さらに、カレームに入った最初の日曜と、ちょうど真中の日であるミ=カレームが、やはり多くのところで祝祭騒ぎと肉食が許される日とされた。精進はちょいとひとやすみ、というわけで、なんとも愉快ではないか。こうして祝祭の期日も流動的で、いかにも融通無碍なところこそ、民俗慣行の世界の特徴であり、強さでもあった。そしてまたカルナヴァルが、公的な権威筋から定められたものではなく、多様な民衆の生活世界をベースに産みだされたものであることを示しているともいえる。  文書記録のうえでカルナヴァルの表記がでてくるのは十世紀、そしてお祭り騒ぎが登場するのは十二世紀なかばのローマが最古のものとされているようだ。十三世紀の文書にはニースのカルナヴァルも姿をあらわす。すでに中世には重要な位置をしめていたとみなされるこの祭礼は、復活祭とカレームに連動しているかぎりではキリスト教的な意味がないわけではない。しかしその実質的内容には、教会的な意味はほとんどないに等しい。ひとによっては、ローマ時代に農耕の神サトゥルヌスをまつって行なわれた祝祭の騒ぎとの連関を指摘したり、ケルトやゲルマンの春をむかえる祝祭と起源を結びつけて考えるむきもあったようであるが、いずれも起源を証拠だてる資料じたいはないし、さまざまな要素をはらんで成立したとみるほうが自然で、カルナヴァルを単一の起源に結びつけることはできないだろう。  カルナヴァルを擬人化したハリボテ人形やワラ人形は、祭りの最後には儀礼的な演技をともなって死刑の判決をうけ、火にくべられたり、川や池に沈められて処刑された。この儀礼は、冬を葬送するとともに、前年におこった悪しきことすべてをあわせて葬り、そうやっていわばスケープ・ゴートを処刑するという通過儀礼をへて、はじめてあらたな生の再開、つまり春をむかえることができるのだ、というヴァン=ジェネップの説をひいておきたいと思う。  カルナヴァルは、じつにさまざまな豊かな要素をはらんでおり、そう簡単な説明のなかにはおさまってくれそうにない。いくつかの要点だけ、みておくことにしよう。  まずは、カレームと対比され、謝肉祭と訳されるように、食事をめぐる慣行やタブーできわだっている。告解の火曜日はフランスではマルディ・グラといったし、ドンチャン騒ぎの日々はジュール・グラといったが、その場合のグラ gras は脂のこと、つまり人間のデブッチョさんや肉の脂身などを意味する。かつて肉を食べるといえば、一般には豚肉のことであった。今でこそ肉の消費は日常茶飯のことになっているが、時代を遡行すればするほど、民衆の生活における日常の食事はきわめてつましいものだったのであって、そのへんをよくよく頭におかないと、かのガルガンチュアの世界は単なる食い道楽とか大食漢と混ぜこぜになってしまう。農民にとって、飼い豚をつぶして塩づけにする仕事は、中世末からひろまった有名な『羊飼いの暦』にも、十一月の行事、これから寒くなる時期のものとして描かれているが、それは、近隣のものたちが男も女も総出で行なう文字どおりの年中行事であった。そうして塩づけにしたり腸づめにしたりした肉や脂身を、一年のあいだ少しずつ消費してゆくわけである。  つねにものの欠乏、飢え、病気や事故、さらには死とむきあいながら人びとが生きていた日常は、まさにカレームのイメージであって、それとの対比のなかでこそ、ハレの食事がきわだつ。だが、モノの面で貧しくとも、心が貧しいとはかぎらない。むしろ想像力はおどろくほど豊かであり、それが生活を生きぬく知恵をあたえていたようである。人びとは日常とは正反対の世界を祭りの空間のなかに一時的に現実化したが、それは食事や飲酒のみではなく、さまざまな局面におよんだ。  男が女装をし、ときには女もまた男に変装した。性的なタブーを破るような仕草が、通りのまんなかでわざと演じられた。性的規範のきびしかった農村でも、仮面をつけ、さまざまに変身した祭りの主人公たちは、この日ばかりは異性にふれたり、あるいは仕草や言葉で、きわどいやりとりをすることが許された。道のまんなかでオナラの演技をしたり、スカトロジークな場面が哄笑のなかで演じられたのは、一面で「良俗品行」を笑いとばすこと、貴族的洗練やブルジョワ的矜持をコケにすることでもあり、他面では一種の豊饒儀礼的行為として理解されている。  そうした演技の主役は、しばしば熊や野獣だったり、ツノをはやした悪魔のような仮装をしていたが、かれらは一般に、村や町に外から進入してきて走りまわり、家々をめぐって役をこなし、パロディを演じた。熊の変装で知られたピレネ山中の事例では、外からやってくる熊(に変装した一人の若者)と、狩人の役をする若者たちとが、ロゼッタという若い娘に扮した若者をとりあう。熊はロゼッタをおそい、性的な身振りで征服しようとし、狩人たちはそれをさまたげようとする。村人たちすべてにかこまれて通りを練り歩きながら演じられたすえに、広場につくといよいよクライマックス。ロゼッタをさらおうとする熊を、狩人たちがたおす。熊は一度死んだ仕草をし、そののち息をふきかえす。この事例では、よそ者との結婚を規制するというシャリヴァリ的演技もみとめられる。じっさいカルナヴァルのドンチャン騒ぎは、日頃から尻軽とみられた妻女とか、逆に暴力ばかりふるっている夫とか、いずれも共同体的規範にかなっていないものにたいして、シャリヴァリがしかけられる絶好の機会でもあったのだ。また死んだのち生きかえる熊の演技は、終末と再生、冬と春の継起、古い年と古い生のおわりと、あらたな年と新しい生の再開とを、同一の時空のなかに表現しているものともいえる。  あるいはもうひとつの点として、日本民俗学の小松和彦氏たちのいう「他界」からの来訪、あるいは「異人」の来訪というモチーフともかさなる要素があり、たいへん興味ぶかい。五月の祭礼のときにも指摘される「緑男」のようなやりかたが、カルナヴァルの演技として行なわれるところもあった。これも五月同様、緑が生命と春をシンボライズするものであることはいうまでもないが、同時に外部からやってくる異形の「来訪神」的な意味あいを認めることもできるのではなかろうか。ちょうど日本民俗学が、南西諸島の「来訪神」について指摘するところと、たいへん類似する要素があるようにみえる。たとえば波照間島で雨乞いのとき演じられた「来訪神」のフサマラー、あるいは宮古島で悪霊を払ってくれるとされたパーントは、全身を緑でおおって黒い仮面をつけ、みずから悪霊の化身のようなスタイルをして、わざと悪臭をはなつ泥をあちこちにぬりつけてまわるとされている。もちろんパーントとカルナヴァルに系譜的な関係はありえないだろうから、ということはいわゆる「伝統」社会に生きる民衆の祈りの本質には、きわめて類似した、通底しあう基盤を認めることができる、ということになろうか。  冒頭にあげた十九世紀パリ民衆の場合には、周縁から中心へ、というコースを文字どおり地図のうえでもたどるわけだが、そこでは、都市生活から排除されつつあった民衆による、中心の一時的な奪還というニュアンスがつよい。  かつての農村にせよ都市にせよ、「若者組」が集団的まとまりとして大きな意味や機能をもっていたところでは、カルナヴァルはまた、そのリーダーを毎年選びだす機会でもあった。選ばれたリーダーはむこう一年間、たとえば「若者修道院」などとよばれたグループの院長となるわけだが、カルナヴァルの期間も王として君臨することになる。このような若者集団のありかたは、中世末からルネサンスのころまでがピークであったといわれており、たとえばルーアンの「コナール修道院」とかディジョンの「気狂いおっかあ」、リヨンやマコンの「無礼講」、アミアンの「アホ組」などが知られている。ただしもちろんリーダーは、カルナヴァルのドンチャン騒ぎのあいだ、王としてパロディを演ずるのであって、文字どおりの絶対的権力をゆだねられるわけではない。王は、どの家にでも入って酒食を要求してよいとされ、どんな女にでもふれたり、からかったりしてよいことにはされるのがふつうだったが、いずれも勝手に思いのままにしてよいわけではなくて、いわば一線は越えないことが約束事になっていた。それは、社会秩序を転倒して演ずる場合も同様であった。あくまで日常的な状況をずらしたり、ひっくりかえしたりすることを演技するのである。  十九世紀のラングドック地方の一例では、ハシゴを横にして、白装束をまとった男たちがハシゴの段のあいだにそれぞれ入り、こっけいな行列を演じてみせた。現実の階層序列のイメージとしてのハシゴを横倒しにし、平等的な世界を演出したのである。十九世紀前半のパリでは、貴族やブルジョワのなりをした民衆が本物そっくりにパロディを演じ、喝采をあびた。厳粛で権威を誇示した国王や聖職者の行列は、しばしば恰好のからかいの対象になり、もっともらしい裁判を演じて、およそ現実にはありえないこっけいな判決をくだすことで、現実の司法が茶化された。  たしかにそれらの演劇は、一時的に世界をひっくりかえすだけで、ふたたびもとの日常の世界へともどるのだから、基本的には、抑圧からの一定の解放をバネにして日常の秩序を維持させる役割をはたすものであった。だが、しかし今みたような社会的・政治的含意は、たえずカルナヴァルの演劇につきまとっている。であればこそ、秩序維持に腐心する権力は、カルナヴァルを筆頭とするさまざまな祭りにつきものの非日常的騒ぎに神経をとがらせたのである。十九世紀には、民衆によるやかましいお祭り騒ぎはカルナヴァレスク、つまりカルナヴァルふう騒ぎとよばれ、ブルジョワの一部は好奇のまなざしをむけ、あるいは粗野で下劣なこととしてマユをひそめることになる。カルナヴァルの騒乱は、民衆蜂起の騒乱と紙一重なのである。  じっさいアンシァン・レジーム下の民衆蜂起は、顔を黒く塗ったり仮面をかぶったり、女装するなど、行動形態においてしばしばカルナヴァレスクな様相を呈した。それらの民衆蜂起は、共同体ぐるみでおこされることがふつうであったから、これらの扮装は、身元を隠すといった近代的意味でのカムフラージュを意味するわけではない、と考えられる。むしろ人びとは、毎年カルナヴァルで経験していた「さかさまの世界」を、権力にたいするみずからの異議申し立ての表現手段とすることにためらわなかった、とみなしたほうがあたっていよう。よりまれには、蜂起・騒乱とカルナヴァルが文字どおり結合した事例もあった。十九世紀なかばになっても、カルナヴァルと政治的行動が結びついた事例が報告されている。すでにみたように、カルナヴァルを表わす人形やハリボテは、祭りの最後に燃やされたり、川に流されたりして、葬送儀礼が演じられたのだったが、いくつかの政治的状況においては、それらの人形は打倒対象である国王や政治家などを象徴するものでもあった。かの一八四八年二月革命にさいしての民衆蜂起にもまた、カルナヴァルと共通するいくつかの行動が指摘されている。二月は、カルナヴァルの月なのである。 [#改ページ]   11 復活祭と春のよみがえり  ひとは、陽のぬくもりやかすかな風の変調に、あるいはまた水のぬるみに、春の予兆を感じとろうとする。ノエル以来このかた、冬のあいだに行なわれる祝祭や慣行が、多かれ少なかれ春をよびまねく性格にしるしづけられていることについては、すでに幾度かふれてきた。三月ともなれば、いよいよ春は近い。カルナヴァルの葬送は、いうなれば冬の葬送でもあった。中世末から伝わる有名な『羊飼いの暦』の、月ごとの図版をみてみると、三月は、ブドウの木の剪定が中心に描かれており、うえの方には、川に入って魚をすくっているとおぼしき情景がそえられている。  二月なかばから三月なかばが魚座の時期だということとも関係しているかもしれないのだが、じっさいにもこの月は、秋のふかまり以来続いてきた屋内中心の生活から、屋外での活動の本格的な再開へと移ってゆく移行期にあたっている。畠をたがやし、春まきの穀物や野菜の種をまき、作付におわれる。牛や羊が家畜小屋から引きだされ、野に遊びだすのも、蜜蜂が巣箱から放たれ、花をもとめて飛びかうようになりだすのも、すべてこの時節からはじまるのであった。南と北、平地と山地などでさまざまにズレがあるのはもちろんなのだが、どこにおいても、「夜の集い」の季節は終りをつげることになるのである。  三月二十五日は、マリアへの受胎告知アノンシアシオンを記念した祝日である。いうまでもなくこの祝日は、教会によって暦のなかに定められたものであった。よく知られていることだが、大天使ガブリエルによってヨセフの婚約者マリアにたいしてつげられたのは、マリアは聖霊によって男の子をはらみ、その子こそは、この世の救い主となるであろう、ということであった。それから九カ月ののち、ノエルの日にイエスが生誕する、という計算になる。  暑さ寒さも彼岸まで、といういいまわしが日本にはあるわけだが、フランスの習俗世界においても、春分は、春の到来への区切りをなしていた。まだまだ寒い日が多いとはいっても、いよいよ昼の方が長くなりはじめるのである。夜にたいする昼の勝利。闇にたいする光の勝利。昼と光は、いきいきした生と希望をイメージさせ、夜の闇は、なにより悪と結びついたイメージをもたらす。習俗世界のイマジネーションにおいては、闇に乗じて魑魅魍魎《ちみもうりよう》が跋扈《ばつこ》し、呪いが飛びかう夜は、とりわけ悪魔の時間なのである。女や子どもは夜出歩かない方がよい、という意味の諺は、少なくなかった。春分とは、その夜にたいして、昼が決定的に勝利したことがしるされる日というわけである。三月二十五日は、当然ながら正確にいえば春分と一致するわけではない。だが、民俗的想像力が働きかけるなかで、この両者は、どうやら結びつけられてとらえられていた。救世主イエス生誕の予告と、夜=悪にたいする勝利とが、ノエルの場合とおなじように、ダブルイメージされる。  さて、春のよみがえり、屋外での生の再開と結びついている、という点でもって、よりいっそうはっきりしているのが復活祭である。キリストの復活と春の再生、生のよみがえり。復活祭は、英語ではイースター、ドイツ語ではオステルン。これらの語はいずれも東と関係している。東とは、もちろん日の出る方角であり、若々しい太陽は春を連想させる。これまでにのべてきたノエルやサン=ジャンの祭りとおなじく、復活祭にも火や薪にまつわる慣行があるのは太陽との結びつきだ、という説もある。また、キリスト教以前のケルトやゲルマンの世界には、三月末から四月はじめにかけて自然の再生を祝す春祭りがあって、それがキリスト教世界へ受けつがれたという説もあるのだが、そうした起源を証明しうるデータはやはりないようである。  フランス語では復活祭をパックPaques というが、この語は、もともとヘブライ語で通過を意味した言葉に語源があるとされている。元来ユダヤ教においては、この祭日は踰越祭(すぎこしのいわい)といわれるように、ユダヤの民がモーゼにひきいられてエジプトから脱出したことを記念する祝祭であった。ユダヤの民が途中、紅海に行きあたったとき、神の手によって海の水がふたつにわかたれ、そこにつくられた道を通過することができた。そして通りおえたあと、追うエジプトの軍勢が海のなかの道を進んでいるそのときに水の壁は崩れおち、追っ手をのみこんでもとの海にもどったという。かつて映画『十戒』のなかで、大スペクタクルとして描かれていたことを想いだす方もおられるだろう。してみれば、この旧約聖書、出エジプト記にしるされている故事に語源をもつフランス語のパックは、英語やドイツ語の表現よりも原義を伝えているということになろうか。  さて、キリスト教における復活祭は、春分後の満月のあとにくる最初の日曜日に祝われる。ようするに、年によって日が動く、移動祭日であり、春分の日をすぎたあとであるから、三月末から、たいていは四月に入って、ということになる。そしてカレームやカルナヴァル、あるいは聖霊降臨祭などのように、復活祭を起算点とする暦は、すべて復活祭に対応して毎年動くわけであるから、いささかややこしい。  その日曜日が、文字どおりの復活祭にあたるわけだが、その日のみが孤立して暦のなかに位置づけられているのではなく、その前後一週間、つまりは合計二週のあいだが復活祭の期間なのである。ひとつまえの日曜は枝の主日といわれるのであるが、これは「花にみちた復活祭」ともよばれ、この日から聖週がはじまる。復活の日曜の一週あとの日曜は白衣の主日であり、この日はまた復活祭期間の閉じる日ともよばれる。ただし期間の前半が聖週といわれるように、聖書にしるされている故事に対応して、力点は、クライマックスである復活の日曜にむかう前半にある、といってよい。 [#挿絵(img/fig10.jpg、横×縦)]  聖週のはじまりである枝の主日は、キリストがエルサレムに入ったとき、信徒たちが路上に木の枝をまき、手にはおのおの一枝のシュロをもって出迎えた、という故事にちなんでいる。しかし南フランスの一部をのぞけば、シュロのたぐいはフランスではあまり一般にはないわけだから、もちいられる枝の種類は土地がらに応じていろいろであった。なかでも、月桂樹とツゲが、もっとも多くのところで使われた。教会で清められたそれらの枝は、各家でお守りとして、さまざまにもちいられることになる。この日が「花にみちた復活祭」といわれたのは、ひとつには、それらの枝は花をつけたものであるべしということからくる文字どおりの意味であったが、同時にまた花は、春の再生、草木の活性化のシンボルでもあった。  聖木曜は、イエスがユダに裏切られて捕われの身となった日をしるして、教会内部の装飾にはすべておおいがかけられ、あかりも消され、そして鐘が時をつげること、あるいはミサをつげることをやめる。鐘がローマへ飛んでゆくのだ、といわれ、ブルターニュ地方では、教皇に肉食の許可をもらいにゆくのだ、と子どもたちに説明された。そう、復活祭は、肉断ちの精進期間であるカレームの最終局面をなすのである。食事や性にまつわる禁忌は、復活祭の日曜の朝、終了する。その点でも復活祭は、生の活性化、解放と希望のイメージと結びつく。聖木曜から復活の日曜までの「闇の支配」は、聖書にしるされているキリストの死後「すべては闇におおわれた」ということからきている。あるいはレヴィ=ストロースによれば、この時期に各家庭で暖炉の火が必要とされなくなり消される、という季節上の行事をこの闇は象徴してもいる。  復活祭というと卵、あのイースター・エッグのことを誰しもが想いうかべる。卵はこれから生まれいずる生命のシンボルであり、豊饒、再生産とのマジカルな関係をもつものとして、伝承慣行のなかにしばしば登場する。あるいはメッス地方のように、悪しき呪いをはらいのけてくれる力をみとめるところもあった。と同時に復活祭の場合には、精進からの解放という意味があった。かつてカレームの精進がきびしく守られたころには、卵を食べることもこの期間にはタブーだったからである。復活祭の日曜に焼きあげられた大きなオムレツは、精進の終了を象徴するもの、というわけである。  どうして卵に色を塗って模様をつける地域があるのか、という点については、不明というほかないようだし、とくに子どもにそうした卵をあたえるならわしは、農民の世界からではなく、むしろ社会的上層部や都市からおこったことではなかろうか、と推論されている。少なくとも記述資料に出てくるかぎりでは、十五世紀のアルザスについての資料がもっとも古く、十六世紀になるとフランスについても出てくるが、それは宮廷での風俗としてであった。と、これはヴァン=ジェネップの調査による。のちになると子どもたちは、聖週の後半にグループを組んで家々をまわり、卵などを受けとって歩くようになる。そして引きかえに神の加護をとき、それぞれに地方色をもった受難の歌や嘆きの歌を歌ったのである。聖木曜から土曜まで、鐘が使われないあいだ、日課やミサの時をつげて歩いたのも、また子どもたちであった。  キリストは金曜にはりつけにあい、日曜に復活する、ということになるが、土曜の夜半には、復活をまつ深夜ミサが行なわれる。教会の前で火がたかれ、司祭の手によって祝別された火からローソクがともされる。そのかん教会のなかは真暗闇にされ、そこへローソクを手にした人びとが進みいってゆくのは、なんともドラマチックな演出である。すでに幾度となくでてきたように、火は、いうまでもなく闇にたいする勝利であり、あたたかさと希望のシンボルである。  聖週は、復活との対比で凶としての性格をもつだけに、さまざまな禁忌がともなわれていた。習俗世界にあってそれらは、多かれ少なかれマジカルな要素をはらむものだった。たとえば、かなり一般的にみられた洗濯のタブーや、モルヴァン地方での針仕事のタブー、あるいは聖週間に精進すれば歯痛にならないとか蛇にかまれないといった信心、さまざまな効用があるとされた清められた水のマジカルなお守り的役割などが、端的にそれを物語ってくれるし、すでにのべた卵や火もまた、そうしたマジカルなシンボリズムとふかい関係にあったといわねばならないのである。 [#改ページ]   12 祭りの風景のむこう側  春の本格的到来を祝う五月一日の祝祭からはじめて、歳時記ふうに一年をたどってきたわれわれの習俗世界への旅も、復活祭でもって、ほぼひとまわりを終えたことになる。いかにも駆け足旅行で、しかもガタピシした相当に出来の悪い馬車で走っているかのような旅だったから、風景のありさまはもとより、その風景が何を語っているのかをうまく伝えられたかどうか、いささか心配がのこるというのが、馭者としての正直な気持ちというところである。  そこで、それぞれの祭りや慣行のいくつかなどについて語るなかで、おりにふれて手短にしるしてきた祭りや慣行の意味、および背景、つまり風景のむこう側にみてとれるものについて、最後に多少ともまとめてふれておくことにしよう。  祭りが一年のどこに位置しているかということは、キリスト教の暦と伝承生活の暦とが、中世以降微妙にかさなりあって定まっていったものと理解できるが、第一点は、かつての、とくに農村社会においての、時のはかどりをとらえる心の動きとかかわっている。  しかるべき時期になるとやってくる祭りは、一年の生活にリズムをあたえ、単調さからのがれる手段をあたえてくれる。祭礼は、なによりも気晴らしの場である。それは季節的な祭りについてばかりではなく、人びとの一生のなかでの婚礼や子どもの洗礼といった出来事をめぐっての集団的儀礼についてもいえたし、葬送儀礼における会食にすら、そのような性格が指摘される。ただし娯楽というものが、生活の諸局面のなかで余暇として別個に形成されてはいない社会において、祭礼は単直な楽しみのためにあったわけではない。たえず仕事や労働の手順やすすみ具合と、そしてまた独自のシンボリカルな宗教的感性とも結びついて、人びとの生に時のはかどりを刻んでいたのである。そうして一定の伝承的なリズムを実感しあうことによって、むかしからの生活が無事つづいてゆくことがたしかめられる。しかるべき祭りがしかるべくやってこないとするならば、それは、生活の存続にとっての異常事態を意味するだろう。たとえば戦争や疫病、それに飢饉が荒れくるうとき、あるいは祭りの牽引者であった若者たちが去ってゆくとき。  じっさい、社会の産業化が離村現象をうながすとき、祭りは衰退を余儀なくされるほかはない。あるいは時代をさかのぼって考えてみれば、中世末にヨーロッパを席捲したペストは、十八世紀はじめにマルセイユ一帯をあらしたのちフランスから姿を消すまでは、しばしば大量の死をもたらした。そして、疫病はペストのみにあらず、であった。慢性的な栄養状態の悪さは疫病流行に加担したし、ちょっとした天候異変によっても引きおこされた農作物の不作と飢饉は、あたかも歴史に拍子をあたえるかのように間欠的に人びとを襲い、ことに十八世紀なかばまではまぬがれがたい運命のごとくだったのである。  戦争・疫病・飢饉と三悪がそろいぶみをすれば、死があまねくもたらされたことは当然であった。とりわけ乳幼児死亡率の高さは目をおおうほどであり、かの太陽王ルイ十四世のもとで、一歳未満児は平均して四人のうち三人までしか生き残れなかったと見積られている。ようするに四人に一人は死ぬ。その難関を突破できても、十五歳までにはさらにもう一人が世を去っていったのであり、つまりは赤ちゃん二人につき一人しか大きくなれないという勘定になる。  しかもこのようなデータは基本的に、それぞれの小教区ごとにつけられていた台帳に司祭たちが記入したものを土台に計算された数字だから、そうした定住者の世界からはずれてしまった者たち、一九七〇年代から歴史学や社会学でマルジノー marginaux とよばれている者たちは、しばしばカヤの外なのだ。しかもそうした社会の最底辺をなしたマルジノーの数は、なかなか馬鹿にならないほどだったと推定されるから、現在のような人口統計がもし可能なら、事態はさらに悲惨だったことが判明するやもしれぬのである。  このような現実は、十九世紀をとおして徐々に改善されてゆく。だが人びとの記憶の底には、こうした遍在する死へのおそれや懸念が根強く生きつづけ、さまざまな慣行だの諺だのにそれが映しだされていたのであった。フランスの習俗世界での諺を徹底的に調べているフランソワーズ・ルークスという女性の民族学者によれば、「一人しか子のないものは、一人もいないのとおなじ」という諺がずっと言い伝えられていたことがわかっているし、「死はつねに正しい」とか「愛と死、それ以上に強いものとてなし」といったたぐいの死にまつわる諺は、それぞれの地方ごとに多数採集されている。  けれども、こうした生きることのきびしさをひたすら悲惨なイメージで描きあげることは、つつしむべきだろう。そうした悲惨な面ばかりを強調することをフランス語ではミゼラビリスムmis屍abilisme というが、それはいわば田園生活をもっぱら美化して讃美したロマン主義的とらえかたと、裏腹の関係というべきものにほかならない。  生のきびしさや死へのおそれを前にして、人びとは、ただただあきらめていたわけではなかったし、モラトリアムをきめこむわけにもいかなかった。それとむきあい、のりこえるための仕掛けをいくつも用意していたのである。祭りも、そのひとつであった。  これが第二点である。祭りは、生のきびしさがもたらす日常的な緊張から一時的に人びとの身も心も解き放つことによって、緊張からくる心理的抑圧が限界に達さないようにする仕掛けでもあったのだ。柳田民俗学のいう「ケ—ケガレ—ハレ—ケの回復」という図式は、日本ばかりでなくフランスの習俗世界にも適用可能だろうと思われる。  祝祭の酒食は、日頃の物質的なきびしさがあればこそきわだつ。日常からの一時的離脱は、物質的な側面のみではもちろんない。五月の祭礼やサン=ジャンの火祭りのおりにふれたように、たとえば日常的にはなかなか厳格な自主規制のもとにあった未婚の男女の接触は、祭りの空間において一定の範囲で解き放たれる。あるいはカルナヴァルのさいにみたように、平等的世界や、現実の階層序列とは「さかさまの世界」が祭りのなかで演じられたということは、そうやって茶化された国王や裁判や高位聖職者といった権力、より一般的には外の世界と共同体とのあいだに、日常的には緊張関係が存在したということを示唆している。  こうした仕掛けとしての祭りは、非日常的な時間と空間をつくりだすことでその任をはたすわけだが、それは一定の約束ごとのもとでの一定期間のみの話であった。それが約束の範囲をこえたり、一定期間をこえて持続化すれば、もはや祭りの域をはみでることになる。  しばしば指摘されてきたのは、祭りと反乱の共通性であり、よりまれには祭りの反乱への転化という事例であった。じっさい祭りと反乱における身ぶりや行動には、相同の要素が多々みてとれることについては、カルナヴァルのところでふれたとおりである。もう一例のみあげよう。歴史家ニコル・カスタンの研究によれば、一七八三年二月、ラングドック地方の一画におこったある反乱は、その主人公である農民たちが仮面をつけて変装していたことから、文字どおり「仮面の反乱」とよばれることになった。二月、仮面、変装とくれば、もうおわかりだろう。カルナヴァルと結びつかずにはおかない。  しかし、祭りと反乱が現実に結びつくのは例外的なことであって、ふつうはまた日常へと回帰してゆく。つまり祭りは、一方で現実を否定するという反乱と共通の要素をもちつつ、他方では現状を維持する仕掛けでもあった。  反乱がたった一人で行なわれたわけではなく、共同体的な集団行動として展開されたとおなじように、祭りは、人びとが共同で、集団的につくりあげていったものであった。そこで祭りの機能の第三点がでてくる。つまり、住民たちの共同体の連帯の確認とその強化、という意味である。  祭りの主たる牽引者は若者たちだったが、住民共同体の全員が準備し参加することで、相互のつながりは身をもって示される。たとえばカルナヴァルに典型的な演劇的空間では、たしかに主役の存在は認められるのだけれども、演ずる者と観る者との区別や分断があったわけではない。主役はいわば仕掛人であって、共同体の空間が全体として舞台をなし、いまふうにいえば「パフォーマンス空間」とでもいえる場が構成されたのである。  そのような祭りの非日常的空間は、日常生活のなかでの広場や居酒屋、教会での集まりや夜の集い、さらには街角での出会いにおける、日頃の社会的なつきあい関係、ソシアビリテの網の目が濃密に存在することを、その前提的な基盤にしている。そこは、顔と顔をつきあわせて言葉のキャッチボールを行なう、そういう話し言葉や身振りの直接性が第一の位置をしめる世界である。  住民共同体がうまく存続し、あろうことなら繁栄するためには、なによりその成員が代々たえることなく受けつがれなければならない。そこで第四点。祭りの豊饒儀礼としての意味である。ひらたくいえば、きびしい生を前にしての豊かさへの祈り、ということだ。それは子孫の繁栄という点で性的な含意をもつものでもあり、健康への祈りでもあり、かつまた祭りと農事暦との関係から自明なように、農作物や家畜の豊かさへの祈りでもあった。  巡礼や、日常生活におけるさまざまな慣行に示される祈りとおなじように、祭りによみとられる祈りは、願かけ的な、つまり現世的色彩の濃いものである。しかしそれらの祈りは、苦しい時の神だのみというのとはちがい、生存の底から分泌されて出てくるものであった。かつて民衆の生活世界にあって聖なる領域と俗なる領域とは不可分なものとしてかさなりあっていたのだ、と考えることができる。そこでは、人・社会・自然・超自然がたがいに結びつけられていたのであり、現世と彼岸の境域も現代のようにはっきりつけられてはいなかった。  そうした民衆の信仰、あるいは宗教的イマジネーションこそ、さまざまな祭りに一貫性をあたえていたものなのである。それは、近代的な分析的思考とは対極にあるものであり、また教会の説くキリスト教とも多くの面でズレをもったものであった。だからこそ教会は、民衆の信仰のありかたと生活のありかたとを繰りかえし教育しようとし、みずからの教義に即した方向へむけようと腐心したのであった。  話のなかで何回かふれてきたフランス内部の地域性、多様性について、あるいはまた住民共同体内部に存在した社会・経済的な階層序列について、その時間的推移をふくめてもうすこしきちんと語ることが歴史の話としては必要なのだが、それはまた別の機会にゆだねたいと思う。ここではなにより、しばしばストレートに近代の発展という図式のなかでとらえられがちな近代フランスが、じつは、ことほどさように単純ならずなのだぞ、そして、かつてしがらみ[#「しがらみ」に傍点]の側面とブレーキ役のみが強調され、近代との対比でもっぱら否定的に語られていた「伝統的」な住民共同体が、じつはきわめて柔軟で豊かなイマジネーションをもった習俗世界を形成していたのだぞ、ということを強調しておきたいと考えるからである。 [#改ページ]  おわりに  この小著のもとになったのは、『基礎フランス語』という雑誌に一九八四年春から二年間にわたって連載した、一連の文章である。それらに大幅に手を入れて書きなおし、あるいは書き加え、分量にしておよそ一・五倍くらいにふえたものが、みなさまのお手元にあるこの本、ということになる。  もともと専門研究者を相手に、むずかしい顔をして書いたものではない。フランスに関心をよせていらっしゃるかたがた、というより、ひろく歴史に興味をいだいておられるかたがたを想定して、なるべく楽しい読みものをという心づもりで、連載中はペンを手にしていた。書き加えて一書にまとめるにあたっても、そのはじめの心づもりに、かわるところはない。  けれども、ただひたすら知ることのたのしみばかりをこととしたわけでもない。できるだけ肩ひじはらずに、眉間にしわなどよせずとも読むことができ、しかもそのなかで、現在、歴史をたずねるにあたって重要と思われる問題はそれなりに呈示しておきたいという、じっさいにはかなりむずかしい欲ばったことを考えていた。  私がなぜ、社会生活のなかでの時間のありかたとか、あるいは習俗世界のようすだとかに、とりわけ関心をもっているのかについては、すでに第㈵部、第㈼部の叙述をとおして、なかでもそれぞれの最終部分で、簡略に示されていると思われるので、あらためて繰りかえすことは避けたい。  ただ、おわりにあたって、以下の点にはこだわっておきたいと思う。  第㈼部に描いたような習俗の世界を、そのままふたたび現実のものとすることは、現在のフランスであれ日本であれ、けっしてできることではない。習俗世界のポジティヴな側面に光をあてるこころみは、それらをほぼ失ってしまった現代社会の、「古き良き時代」へのノスタルジーをくすぐるものだ、という非難の声にしばしば出喰わす。しかしここで問題となっているのは、「むかしは良かった」ということではもちろんない。もともと理想化できるほど、かつての現実が甘くはなかったことについては、本文のなかでもふれたとおりである。私の関心は、いささか眉間にしわがよりそうな大上段にふりかぶった言いかたにはなるが、つぎのことに集約される。  地球上の一部に、物質的なゆたかさをもたらした現代産業社会は、技術と科学とに依拠して、合理性の進展、なかんずく経済的合理性の進展を目標にかかげ、追いもとめてきた。しかしこの現代社会は、このさき地球滅亡の黙示録的破局へと突き進むことなく、生き残ってゆけるのであろうか。そのためにはどうあるべきなのか、あるいはどうありうるのだろうか、ということである。  このような大問題にたいして、この小著から「処方箋」がみちびかれるわけではない。だが、かつてより人びとが生活のなかに伝えていた、それぞれの土地に固有の「土着的」な生きかた、という意味での「民衆文化」と、それじたいは中性的で普遍的なよそおいをもった「産業的なるもの」との共存は、いかに可能であろうか、その可能性をさぐってゆくことが、当面の重要な課題ではなかろうか。「産業的なるもの」の一方的な邁進は、黙示録的破局への突進ではないのか。私が、社会生活における時間や習俗の歴史にこだわるのは、ひとえにそこにかかわっている。  そういう意味では、素材はとくにフランス史である必然性はなかったといってもよい。  けれども近代フランスは、デカルトで有名なように、近代合理主義のふるさとであり、フランス革命がしばしばそうみなされたように、市民社会・国民国家原理の産みの親、ということになっている。ところで、フランスはキリスト教の国である、といってすまされない問題を、「人びとによって生きられた宗教体験」がつきつけてくることは、第㈼部で繰りかえし指摘した点である。おなじように、フランスを近代合理主義や国民原理と結びつけただけではすまされない問題が、「人びとによって生きられた近代」を問うことによって、みちびかれるはずである。  それは、フランスの少なからぬ歴史家たちが「民衆文化」研究のなかで問うている「近代とは何か」という問いなおしと、かさなってくる。そして問題はフランスについてのみではなく、「近代ヨーロッパ」をモデルにしてきた日本についても、またかかわっているのである。  さらにふかめてゆくことは今後の課題なのだが、フランスの習俗世界の変遷の道すじと、日本のそれとを比較対照して考えてみることは、なかなか示唆にとんでいる、と私は考えている。背景となる宗教が異なっているようにさまざまな差異があることはもちろんだが、同時にまた、きわめて並行的な類似点にも気づくのである。  一般的にいって、差異と類似の明確化と、それらの比較対照をとおして、異なる文化・社会を理解しようとする行為は、じつは問うているみずからの現在をもよりよく理解しようとするものではないだろうか。外国史の研究はすべて、というよりも異文化社会の研究はすべて、そういう契機をはらんでいる。空間のなかへ、あるいは時間のなかへと旅をすることは、「異なるもの」に共感し、理解するための一歩であるとともに、みずからの文化を相対的につかみ、理解することへの一歩でもありうるだろう。またそうでなければ、わざわざ歴史を研究したり、あるいは語ったりする必要もあるまいと思う。  私が時間や習俗にこだわるもとには、もうひとつの理由がある。それは、時間や習俗のコントロールが社会支配と密接にからんでいる、という点である。日常の立居振舞を枠づけている時間の組織のしかた、それについての意識や感覚のありかたが、じつは権力の問題と不可分にかかわっていることは、本文のなかで繰りかえしのべた。習俗についても、同様である。  このことは、いわゆる「アナール派」をはじめとしたフランスの最良の歴史家たちの仕事から、われわれが読みとることのできるポイントのひとつでもある。そしてまた、ミシェル・フーコーといった思想家や、ピエール・ブルデューらの社会学者たちも、研究の立脚点や手法にちがいがあるのは当然だが、やはり権力と政治の問題を、日常性と文化支配という観点からするどく問いつづけた、あるいは問いつづけているフランスの学者たちである。私なりに、それらの歴史家や思想家たちの仕事に触発され、まなぶなかから、この本は出発している、と理解していただきたい。  この書に私がしるしたことは、これこそ真実まちがいなしの決定版歴史ですぞ、と自称する「真理代弁者」のものではないし、わけ知り顔にもっともらしい「万能処方箋」を調合しようとする「教訓屋」の歴史でもない。そうではなくて、現在の時点にたってみて、こんなふうに考えることができるのではないかという、ひとつの歴史像の提出と思っていただければよい。はたして、たのしく、かつ楽に読めて、しかも現在と将来の問題にむかって開かれてもいるという、そのような欲ふかい目論見をすこしでも実現できているかどうか、それは、お読みいただいたかたがたの判断にゆだねるほかはない。  私はこの書で、個々のデータのあたらしさを主張するつもりはまったくない。いちいちデータの典拠をあげるとすれば、きわめて厖大なものとならざるをえないゆえに、本文中でふれたもの以外、横文字にならざるをえない文献注はいっさいつけないことにした。私がどのような研究書や、かつての調査資料に依拠しているかなどは、専門の研究者であればかなりの想像はつくはずであるし、専門研究を問題にしておられないかたにとっては、こまかな文献注はかえってうるさいことになると判断した次第である。本書は、あくまで先学たちが成してきた多くの研究にまなび、それから吸収したものを私なりの関心と観点からまとめなおして、ある歴史イメージを提出しているのだということを、いまいちど確認しておくことにする。  さらに問題を、ちがった角度からも考えてみたいかたがたのために、翻訳もふくめて参考になる日本語の文献のみを、最後にいくつかあげておくことにしたい。それとても、もちろん網羅的ではありえないから、あくまで手掛りというふうに理解してほしい。  まず第㈵部からであるが、日本人の手になる四冊を、はじめにあげておこう。 [#ここから1字下げ] 角山栄『時計の社会史』(中公新書、一九八四年) 内田星美『時計工業の発達』(服部セイコー社、一九八五年) 真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、一九八一年) 山崎昭・久保良雄『暦の科学』(講談社ブルーバックス、一九八四年) [#ここで字下げ終わり] 時計そのものの歴史に関心をおもちのかたには、最初の二冊をおすすめする。内田氏の大きな著作は、より専門技術的な程度がたかく、日本でのセイコー社の歴史にも詳しい。角山氏の新書は、とくに日本と西欧との比較史という点で興味ぶかいだろう。時間論に関心があるかたには真木氏の著書、天文学や暦法という点で「時」に興味があるかたには、山崎、久保両氏の共著が、手掛りとしてふさわしい。  つぎに翻訳もの。技術史としても、より一般的に歴史書としてもきわめてすぐれているランデスの時間についての著書は、残念ながらまだ翻訳がない。既訳のなかでは、技術史の古典として、 [#1字下げ]リン・ホワイト・Jr『中世の技術と社会変動』(内田星美訳、思索社、一九八五年) また時計の起源もふくめて、百科全書の時代の浩瀚な書として、興味ぶかいのが、 [#1字下げ]ヨハン・ベックマン『西洋事物起原』全三巻(特許庁内技術史研究会訳、ダイヤモンド社、一九八〇—八二年) である。歴史研究者からみると、いくらか細部にひっかかるところがあるとはいえ、たいへん広大な図式で人類史における時間を縦割りに整理し、刺激的な問題提起をこころみているのが、ミッテラン大統領の「ふところ刀」アタリがものしたつぎの書である。 [#1字下げ]ジャック・アタリ『時間の歴史』(蔵持不三也訳、原書房、一九八六年) 人類学的比較考察として、また文化論としてたいへんおもしろく、考えさせられるのが、 [#1字下げ]エドワード・T・ホール『文化としての時間』(宇波彰訳、TBSブリタニカ、一九八三年) ほかに、文学作品にあらわれた時間を論じたものとして、古典的ともいえるのが、 [#1字下げ]ジョルジュ・プーレ『人間的時間の研究』(井上究一郎他訳、筑摩叢書、一九六九年) また、 [#1字下げ]C・M・チポラ『時計と文化』(常石敬一訳、みすず書房、一九七七年) もあるが、こんにちからみると、これはやや概説的にすぎてものたりないように思う。本文でふれたマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、岩波文庫で読むことができる。ミシェル・フーコーについては、新潮社から一連の大著の翻訳が刊行されており、つぎの書も導入として参考になるはずである。 [#1字下げ]桑田・福井・山本編『ミシェル・フーコー、一九二六—一九八四 権力・知・歴史』(新評論、一九八四年) 本文のなかでもふれたが、 [#1字下げ]喜安朗『パリの聖月曜日』(平凡社、一九八二年) は、十九世紀、七月王政下のパリの職人労働者の世界をたずねるには不可欠である。他方、 [#1字下げ]斎藤修『プロト工業化の時代』(日本評論社、一九八五年) は、農村手工業の職人的世界のようすについて、人口史や日欧での比較もふくめ、よきガイドとなるであろう。  第㈼部については、まず、ドイツ・ゲルマン系社会の習俗をとりあげた植田氏の二著作が、フランスとの比較という観点から注目できる。 [#ここから1字下げ] 植田重雄『ヨーロッパ歳時記』(岩波新書、一九八三年) 同『ヨーロッパの祭と伝承』(早稲田大学出版部、一九八五年) [#ここで字下げ終わり] 日本人の手になる著作としては、ほかに、 [#1字下げ]渡辺昌美『フランスの聖者たち』(大阪書籍、一九八四年) が、フランス国内の巡礼地をたずね歩くスタイルで聖人崇拝について語っており、 [#1字下げ]蔵持不三也『祝祭の構図——ブリューゲル・カルナヴァル・民衆文化』(ありな書房、一九八四年) が、ブリューゲルの描いた「カルナヴァルとカレームの闘い」の分析に的をしぼりながら、カルナヴァルを論じている。  本文では何回も登場ねがったヴァン=ジェネップについては、いまのところつぎの一書しか翻訳はない。 [#1字下げ]A・ヴァン=ジェネップ『通過儀礼』(秋山さと子・彌永信美訳、思索社、一九七七年) 最近のフランス民族学、歴史学の研究書からは、たとえば、 [#ここから1字下げ] イヴ・M・ベルセ『祭りと叛乱』(井上幸治監訳、新評論、一九八〇年) 「アナール」論文選『魔女とシャリヴァリ』(二宮宏之他編訳、新評論、一九八二年) フランソワーズ・ルークス『<母と子>の民俗史』(福井憲彦訳、新評論、一九八三年) 同『肉体——伝統社会における慣習と知恵』(蔵持不三也・信部保隆訳、マルジュ社、一九八三年) マルチーヌ・セガレーヌ『妻と夫の社会史』(片岡幸彦監訳、新評論、一九八三年) イヴォンヌ・ヴェルディエ『女のフィジオロジー』(大野朗子訳、新評論、一九八五年) [#ここで字下げ終わり] といった翻訳書が、それぞれのテーマについて参考になるであろう。  日本の習俗世界との比較対照という点からいえば、多くの民俗学の成果が参照されねばならないわけだが、本文との関係でつぎの諸著のみを、ここではあげるにとどめる。 [#ここから1字下げ] 小松和彦『憑霊信仰論』(ありな書房、一九八四年) 同『異人論』(青土社、一九八五年) 波平恵美子『ケガレの構造』(青土社、一九八四年) 同『暮らしの中の文化人類学』(福武書店、一九八六年) 宮田登『女の霊力と家の神』(人文書院、一九八三年) [#ここで字下げ終わり]  最後に、この本のもとになった『基礎フランス語』の連載にさいして、何かとお世話になった当時の三修社スタッフ、三谷玲子さんと大宅尚美さん、そして「フランス史の風景」と題した連載を私にバトン・タッチして書く場をあたえてくださった堀越孝一氏に、この場をかりて感謝の気持をあらわさねばならない。また今回このような形で刊行するにあたっては、新曜社の堀江洪氏と、畏友の山本哲士氏にお世話になったし、実務的なことがらのいっさいについては、同社編集部の竹沢えり子さんの有能な助力がなかったら、こんなに早くは形にならなかっただろうと思う。みなさんに、心からのありがとうの言葉を、書きそえておきたい。    一九八六年 残暑のなかで [#地付き]福井憲彦   [#改ページ]  文庫版へのあとがき  今から十年ちかくまえに出版してもらった『時間と習俗の社会史』は、わずかずつではあるけれども着実に読者を得つづけるという光栄に浴してきた。ありがたいことである。今回、ちくま学芸文庫に収録していただくことによって、新しい層の読者の目にとまるようになれば、なおのこと幸せに思う。  じつはちょうど昨年あたりから、大幅に補筆して新しいものにしようかとも思っていたのだが、旧版は旧版でそれとして十分に意味がある、という編集サイドからの言葉もいただいて、今回の文庫化においては最小限度の字句の修正や説明の追加、図版の変更などの手入れにとどめることにした。書き手としての私自身の問題関心のありかや、問題を眺め、考える角度といったものは、以前と変わってはいない。  余暇や自由時間の過ごし方、あるいは逆に時間的な束縛という現代のストレス症状、さらには高齢化社会のなかでのライフサイクルのあり方など、この十年ほどのあいだに、問題はいっそう考えるべき課題として現実の表面に浮上しつづけているように思われる。そうした現状とおそらく無関係ではないと思うが、時間や習俗をめぐる書物は、この十年のあいだにもずいぶんさまざまに出版されている。とくにフランス史など外国ものの場合には、翻訳の刊行はこの十年というもの相当にすすんだ。本書を最初に出したときにはまだ翻訳されていなかったもののうちにも、いくつか日本語で参照できるものがでている。そこで、旧版に付した文献案内への補充として、以下いくつかのものをあげておきたい。もちろん網羅的なものではないから、問題をさらに考えるためのきっかけにでもなれば幸い、ということである。  まず、㈵で言及したメルシエの『パリ点描』は、部分訳だが文庫版で手にすることが可能になり、ランポノーの酒場や聖月曜日について一部、日本語でも読めるようになった。 [#1字下げ]ルイ・セバスチアン・メルシエ『十八世紀パリ生活誌——タブロー・ド・パリ』(原宏編訳、岩波文庫、一九八九年)  その聖月曜日に示される職人的労働者たち独自の社交の世界については、ゾラの『居酒屋』が下敷きにした第二帝政期にかんする本が、やはり文庫版で読めるようになった。 [#1字下げ]ドニ・プロ『崇高なる者——十九世紀パリ民衆生活誌』(見富尚人訳、岩波文庫、一九九〇年) がそれである。また、 [#1字下げ]マイケル・オマリー『時計と人間——アメリカの時間の歴史』(高島平吾訳、晶文社、一九九四年) が合衆国について、私の問題関心とほぼぴったり照応する形で、詳細に検討を加えていて興味ぶかい。 [#1字下げ]スティーヴン・カーン『時間の文化史——時間と空間の文化 一八八〇—一九一八年上巻』(浅野敏夫訳、法政大学出版局、一九九三年) は、世紀転換期のフランスについて、問題の広がりを示しているところが重要だと思う。  時間については、当然ながら現代物理学などでも重要な議論が展開されているわけだが、非専門家のわれわれにも比較的とりつきやすいものから、ふたつあげておこう。 [#ここから1字下げ]  渡辺慧『時間の歴史——物理学を貫くもの』(東京図書、新装版一九八七年)  ピーター・コヴニー、ロジャー・ハイフィールド『時間の矢、生命の矢』(野本陽代訳、草思社、一九九五年) [#ここで字下げ終わり]  また次の書は、八三年に京都ドイツ文化センターでおこなわれた、物理学、文化史、哲学などのオーヴァージャンルな研究集会の記録である。 [#1字下げ]『時間——東と西の対話』(服部セイコー、一九八六年)  現代日本の山村生活にみられる生活リズムや自然との対話を参照しつつ、現代社会における時間の緊縛性について思考をめぐらした次の書は、私の小著の㈼にも関連してくるが、一読一考に値しよう。 [#1字下げ]内山節『時間についての十二章』(岩波書店、一九九三年)  ㈼についても、関連する本は多いのだが、私が言及した『黄金伝説』は翻訳が出された。 [#1字下げ]ウォラギネ『黄金伝説』全四巻(前田敬作ほか訳、人文書院、一九七九、八四、八六、八七年)  マリア出現については、日本でのはじめての本格的考察である、 [#1字下げ]関一敏『聖母の出現——近代フォーク・カトリシズム考』(日本エディタースクール出版部、一九九三年) をあげなければならない。  マリアンヌというシンボルについては、 [#1字下げ]モーリス・アギュロン『フランス共和国の肖像——戦うマリアンヌ 一七八九—一八八〇』(阿河雄二郎ほか訳、ミネルヴァ書房、一九八九年)  また、エロスとタナトスは習俗世界の理解にとっても重要なキーをなすが、前者については、たとえば、 [#1字下げ]ジャン・ルイ・フランドラン『農民の愛と性——新しい愛の歴史学』(蔵持不三也・野池恵子訳、白水社、一九八九年) [#ここで字下げ終わり] をあげることができる。タナトス、つまり死をめぐっては、アリエスの仕事などが訳されてきたが、なかで取りつきやすいのは、私自身が翻訳したものだが、多くの図版を駆使した次の書ではないかと思う。 [#1字下げ]フィリップ・アリエス『図説 死の文化史——ひとは死をどのように生きたか』(福井憲彦訳、日本エディタースクール出版部、一九九〇年)  カルナヴァル(カーニバル)については、次の二書が今では参照不可欠である。 [#ここから1字下げ] フリオ・カロ・バロッハ『カーニバル——その歴史的・文化的考察』(佐々木孝訳、法政大学出版局、一九八七年) アラン・フォール『パリのカーニヴァル』(見富尚人訳、平凡社、一九九一年) [#ここで字下げ終わり]  ほかにも、たとえば呪術的信仰や魔女現象などについての翻訳もずいぶんなされてきており、それぞれに興味をひくところがあるけれども、ここではこれ以上文献を並べることはひかえたい。  私はフランスを舞台に「時間と習俗」をめぐって試論的な著述をこころみたわけだが、ここにあげたように多くの書物が日本語でも参照可能になったいま、現実と書物とを往還しながら多くの方がたが自分たちそれぞれの考えを鍛えあげられるよう、祈りたい。私のこの小著が、その触媒にでもなればたいへん幸いだと思う。    一九九五年 師走に [#地付き]福井憲彦 福井憲彦(ふくい・のりひこ) 一九四六年、東京に生まれる。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。専攻はフランス近現代史。現在、学習院大学教授。著書に『新しい歴史学とは何か』『鏡としての歴史』『世紀末とベル・エポックの文化』『地中海都市周遊』(共著)など、訳書に『読書の文化史』『図説・死の文化』などがある。 本作品は一九八六年一〇月、新曜社より刊行され、一九九六年二月、加筆訂正の上、ちくま学芸文庫に収録された。